気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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初めて、小説なるものを

初めて「小説」というものを書いてみた。
原稿用紙10枚の超短編である。

一応小説の体裁は採っているが、果たして世に言う「小説」になっているかどうか、聊か不安なのである。

タイトルは、
“陽だまりの中、吾亦紅の花は揺れ”
というのである。

私がこれまでに読んだ中で、最極上の短編小説は、ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』だ。

また、好きな作家の作品集としては、皆川博子の『ゆめこ縮緬』。
集中巻頭の「文月の使者」はとてもよかった。
彼岸と此岸の境界であわあわと揺らぐ世界の描出。

身内といえども容赦のない、厳しい我が連れ合いの評によれば、“相当良い”とのことだから、少しはほっとしたのだが、果たして“薔薇窗”への掲載レベルに達しているかどうか、、、

ともあれ、掲載されれば、6月に発刊の見込みだから、物好きな方はどうぞ。
6月からは、amazonで買えるようです。
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創作 | コメント:0 |

「自己と他者」から“小さな至高者”<あなた>へ

高校時代、乏しい小遣いで本を買うとなると勢い古書ということで、よく古本屋巡りをしていた。
小説以外にも哲学と心理学に関心が深かった。

ある日、とある古本屋で心理学の入門書を手に取った。
確か社会思想社文庫ではなかったかと思う。

古典的な見地からの記述で、色々人間の持つ心理状態の解説が書いてあった。
中に「崇高さ」という項目があって、写真が掲載されていた。
崇高さを感じさせる風景、といった意味合いからだったと思う。
そこにあったのは、巨大な岩石の塊だった。
どうやら峨々たる高山の一部を写したもので、厳しい風雪に耐えてなおも威厳を帯びて聳え立っている、そんな印象だった。
写真の端に古風ないでたちの登山者が立っていた。

それとは名指しできないが、何か打たれるものがあった。
それから間もなくしてフランクルの『夜と霧』を買って読んだ。

中に、不治の病に冒され、収容所内の病院のベッドに臥せっているユダヤ人少女の話が書いてあった。
殺風景な病室から見える唯一の外界との通路、それは窓だった。
そこから1本の木だけが見えた。
少女は毎日その木に語りかける。
すると木が答える。
「私はここにいる。ここにいるよ」と、、、
少女があえかに命を繋ぐ一筋の希望の光がそこに見える。

昨年末から先日まで3冊の書物を立て続けに読んでいた。
○ピーター・L・バーガー『現代人はキリスト教を信じられるか』(教文館)
○C・G・ユング『元型論』(紀伊國屋書店)
○村瀬 学『「あなた」の哲学』(講談社現代新書)

村瀬によれば、近年欧米の思想界では「崇高さ」に関する議論が高まってきているそうである。
既成の宗教からの離反とより広くて深い宗教性への接近という傾斜が見てとれる。

村瀬の論述は、これまで哲学や思想のテーマとして「自己」や「他者(性)」については数多くの議論がなされてきたのに、何故か二人称の「あなた」についての議論がなされていない、というところから始まっている。
欧米語の二人称が単一であるのに比して、日本語のそれが異常とも思えるほどの数があるのは何故か。
お前、君、貴様、あんた、おのれ、われ、汝、、、
それらに現れた、日本語のこうむってきた歴史的背景と意識内での転換の巧妙さ、、、
具体的な論述は本書の記述に譲る。

それらの中で村瀬は「あなた」という語の持つ、特別な語感、特別な使われ方に注目している。
目の前に「出会い」として現前している「あなた」ではなく、内的な呼びかけとしての「あなた」には大きく深い意味性が隠されている。

カントは、「われわれは、端的に大きなものを崇高と呼ぶ」と言う(本書より)。
野辺に咲く小さな野草の花、それにも「あなた」と呼びかける心性は、「小さな至高者」への尊崇の念が内在している。
存在としては小さいが、そこに現れているものの本来の大きさは計り知れないものだ。
“あるがままで尊い”、それは大きな<自然>への尊崇でもあり、またもっと深く高次のものへの祈りなのかもしれない。

村瀬の語り口は、あくまで穏やかで控えめなものである。
しかし、その思考の射程はどこまでも深く広い。

難解な事柄を平明に、あくまでも日常語の語感を大切にしながら解き明かすその語り口、手法は村瀬特有の繊細な感覚に裏打ちされている。

29年前に『初期心的現象の世界』(大和書房)で登場した、吉本理論の継承者とも言うべき村瀬の、確かな足取りを確認することができる好著である。
今年前半期または今年一番の収穫かも知れない。

中で引用され、新たな切り口で開示された書物や作品。
○森崎和江『いのち、響きあう』
○中井久夫『樹をみつめて』
○フランクル『夜と霧』
○ニーチェ『ツァラトゥストラ』
○夏目漱石『坊ちゃん』
(この小説が、従来言われてきた“青春痛快活劇小説”などではなく、日本語特有の格付け語法である「人称」を逆手に取った、<絶対評価>の視点を提示したものだという鋭い指摘)
○米倉斉加年の挿絵
(小さなこどもを背負った少年、、、この絵を平静な気持ちで見ることができない。胸を掻き毟られ嗚咽が漏れそうになる。身の置き所なく、絶叫しながら走り回りたくなる)
○山上憶良『貧窮問答歌』
(汝が世は渡る、というくだりに目を留める村瀬の感覚の鋭さ)
○『池袋・母子 餓死日記』
○耕 治人『そうかもしれない』
○マルティン・ブーバー『孤独と愛―我と汝の問題』
○エマニュエル・レヴィナス『マルティン・ブーバーの思想と現代ユダヤ教』
○高村光太郎『道程』
○川口武久『しんぼう―死を見つめて生きる』
ほか、、、

キーワード:
小さな至高者
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