気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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少しだけ息抜きとか、、、

実は昨日、50年振りに小学校時代の級友に会ってきた。

特に旧交を温める相手もいないし、と思い、また仕事も立て込んできたので、今回のクラス会はパスする気になっていたのだが、何とか時間の遣り繰りも付きそうになり、かてて加えて、私が得意のネット探索で、不明だった男子の所在を2名まで突き止め、そのうちの1人から“君が見つけてくれたお陰で出席が叶い、大変喜んでいたのに、君に会えないとは実に残念だ”と言われ、よくよく思い返してみると、彼は当時の数少ない友達の1人であったと急に懐かしい気に襲われ、出席する気になった。

とはいっても、本番のクラス会ではなく、遠方から馳せ参じてくれる何人かのための10人ほどでの歓迎会だったが。

彼は、小学校当時から物静かで沈着な人物で、暗く屈折していた私を友人として受け入れてくれた度量の広い優しい男であった。

開始時間の直前まで「六曜社」で時間を潰し、10分前くらいに店へ上がるエレベーターの前に立った。
ボタンを押して箱が下りてくるのを待っていて、ふと後ろを見ると頭に白いものが見える初老の紳士が立っていた。
何気なく視線を元に戻し、もしやと思ってまた振り返った。

“あ“と言いかけ口ごもりながら、素早く顔を観察して昔日の片鱗を見つけた。
彼だった。
ネクタイをきっちり締めて、長年の会社勤めが身に染み付いた、きちんとした身なりをしている。
私が彼の名前を呼びかけると、同時に向こうも私だと気付いて、互いに手を差し伸べた。

しかし、いい歳の取り方をしている。
控えめな眼差しに憂愁の翳りが漂い、苦節の年月を物語っている。

その掌は少年時代と同様に柔らかく、私の手を包み込んだ。

今回のことでは、何故か彼のことがしきりに思い出され、どうしても見つけ出さずにはおかない、という不思議な感情に押されて、何度でも諦めずにネット検索を積み重ね、その果てにほぼ100%の確信をもって彼だという人物に行き当たったのだった。

4時間ほど集まった10人と歓談を交わした。
中盤頃から、昔暴れん坊だった幹事のTが「さんとか君とかやめーい」と号令をかけるや否や、堰を切ったように呼び捨てでの名指しが始まり、大声を出さないと相手の声が聞き取れないほどの、あたかも怒号の応酬のような会話が小部屋に飛び交ったのだった。

会合が終わったあと、何度も彼は私に良く見つけてくれた、と礼を言った。
寡黙だった彼が良く喋るようになっていたのだが、飾り気のない彼のその言葉は私を揺り動かし、私は危うく落涙しそうになった。

訊いてみると、10人のうち1人は幼児洗礼を受け、のちに自覚的に堅信礼をも受けたが、教会活動の欺瞞性に嫌気がさして教会からは遠ざかった。
また友人だった彼は、母親が信者で、彼も幼い頃から教会へはよく行っていたそうだった。受洗はしていないそうだったが。
また、うち1人の女性は、近畿での宗教関連団体の副●●という、いわば大物なのだが、彼女は育ちが良いので、そういう地位に纏わる過剰な構えもなにもない、屈託のなさそうな自然な様子だったが、かつては組織の暗部に関わる凄まじい暗闘の渦中に身を置いていたことがあった。

ある意味では、なんとも不思議な巡り合わせのクラスだったのだ。
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霧の晴れ間 ―ささやかな私的試論―

(2009年11月26日23:00)

夕食のあと、暫くして家人に整体施術をする。

このところ、私が深刻な歯痛に悩まされていて、ずっとほぐしていなかったため、相当凝っていた。
いつものことだが、整体をすると、手先に血流が集中するためか、頭がぼんやりとして働きが悪くなる。次いで、目が見えにくくなる。
脳が疲れている証拠である。

そんな中、あれこれと雑談をしながら整体をしていたのだが、今読んでいる書物の関連で、キリスト教の核心である「復活」について話が及んでいった。

言うまでもなく、キリストが磔刑で死んだのち「復活」するという「事実」は、キリスト教がキリスト教でなければならない、最大・最強の証である。

これは、決して信仰者の「内的な出来事」でもなく、神話的象徴表現でもなく、事実そのままの「生身の身体」として蘇ったのでなければならない。実に端的な事柄である。
「理性的」見地からは、あるいは世間的常識からは、全く理解できない事柄である。
この何年もの間、ずっとそれが引っかかり、躓きの石となっていたし、それがキリスト教の核心部分であるとも感じてはいたのだった。

それ以外では肯定できても、それではキリスト教でなければならない根拠に乏しい。そして、それ以外の宗教性一般の理解というのは、確かな内的体験に裏付けられているのでなければ、曖昧で不安定で、単に求道的な傾向性としてしか存在できないだろう。
あるいは、無知蒙昧な信者として善行を積み天国へ行ったり、浄土に行けたりするのかも知れないが、、、どうでもよいことである。

しかし、神が存在するのならば、そしてそれを疑わないのであるならば、その文字通りの「身体の復活」は受け入れなければならない。
キリストは確かに一度死に(陰府に下り、)、そののち生き返った(三日目に死人のうちより蘇り)。
生きて弟子達と語らい、実際に飲食し、磔刑の傷跡をも触らせた。

神は万能であり、死者を蘇らすことにより、その力を証したのである。

「神」は、それを信じようと信じまいとに拘わらず、先験的に「有」る。
神の存在を疑う者は、神の不存在を「信じている」のである。

下位のシステムは上位のシステムを制御することができない=人間の思考・感知能力を超えた領域は捕捉することはできない。
何よりも、暗きところから生まれ、今ここにこうして<ある>ことの根源を説明することが不能である、ということが、超越的・先験的な<それ>があるのでなければならない、ということの基底を成している。そして、その底は果てがない、とも。

その元来名付けようもなく、不可触・不可視の<そのもの>は、仏教でいうところの「真如」「如来蔵」に相当すると思われる。
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日常と裂け目 ―夢―

今朝は6時半に一度目が覚め、もう一度眠った。
そして、8時前頃に再び目覚め、その直前に夢を見ていた。

途方もない夢だった。
自分の脳髄の作用だけでこれほどのものが作れるのか、と疑わざるを得ないほどの。

どこか地方の人里離れた山。
そこに分け入っていく。同伴者がいるようだが、誰かは分からない。
道とは言えない、崖の崩れのようなところをよじ登ろうとしている。

丁度左の一段高くなっているところに1本の木が生えていて、それに取り付いて上に上がる。
上がったところで、その木に抱きつくような形になった。

すると、その木から波動のようなものが伝わってきて、何とも言えず気持ちのよい満たされた心地になった。
上を見上げると、布を太い注連縄(しめなわ)状に編んで、木に巻きつけてある。
この木はおそらく神木なのだ、と思った。

木の横に立って、その奥を見た。
そこには、、、

この世のものとは思えない、、、

これ以上は書けない、、、
おそらく元型夢という範疇に属する夢だと思われる。

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(補足:11月7日)

何か想像を絶した途方もないものが立ち上がっている。

圧倒的な形象。

自然の形成物ではなく、かといって人間の手で加工した構築物でもない、おそらく人類史以前から<そこ>にある、、、
畏怖すべき巨大な、、、
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日常と慰め

このところ、愈々校了の最終段階で、気が抜けないじりじりぴりぴりした時間を過ごしていた。

なるべくゲラの局所だけに囚われないよう、小刻みに小休止しながら進めていた。
こういう時、室内での気散じとしては、音楽を聴いたり、珈琲や煙草、それに漫然とネット上の散策などが手軽でよい。

ところが、このところ仕事部屋で使用しているチープなオーディオ装置が故障して、色々物色して買い換えているうちに、すっかりオーディオ再生音の陥穽に嵌ってしまい、安くて良い出物があれば入札しては落札することを繰り返していた。

一時は、以前に落札しておいたケンウッドのハイコンポというのか、10年ほど前の、小型だが本格的といってよいアンプを一時の繋ぎに使ったところ、やはり手を抜かずしっかり作りこまれた製品の音というのは、腰が据わっていてしかも透明感のある音がするものだと、改めて感心した。

ヴァイオリンの奏でる、高音域の精緻で艶やかな音色がぞくぞくするほど魅惑的なので、何度聴いても飽きないのである。

で、居間にある方の、今では大型といえるほどのアンプやスピーカーをダウンサイジングして転居に備えようと、気軽に聴けるミニコンポのアンプを物色していた。
すると、英国製の小型のアンプが出品されているのに目が留まり、単なる勘だが、これは廉価で落札できそうな気がした。

ネットオークションを長く観察していると、潮目というのがあるのに気がつく。同じ商品がある時1万数千円で落ちたかと思うと、次の週にはその半額以下で落札されたりしている。

ただ、値動きのない商品は、終了間際にあっと言う間に値が高騰することがあるので油断はできないのだが。
今回は、それほど知名度は高くない製品なので、上手くすると安く手に入るだろうと踏んで応札した。

流石に終了間際にじりじり値が上がっていったが、最初が安かったのでさまでは高くはならなかった。
私の他にもう1人、この製品に執着している人がいたが、ぎりぎりの線できっと落とせると感じていた。
最後は、これ以上だと値ごろ感が乏しいと思える価格に私が先に張り付き、思った通り落札することができた。

英国のオーディオ製品というのは斯界では大変評価が高く、タンノイのスピーカーを初めとしてメーカーの数は多いが、私が手に入れたのは、それほど目にすることがない「ミッションサイラス」というアンプであった。

聴いてみて、驚いた。
想像していたのは、柔らかで耳当たりの良い音というものだったのだが、それとは全く違っていた。

それまで聴いていた音から薄幕を一挙に5,6枚ほども剥がし、躍動する生気に充ちて、楽器の動きまでが目に見えるかのごとく、生々しい迫力に溢れた音であった。
音場に深みがあり、音の切れ込みが鮮やかである。

ベースの深々とした響きは、決して曖昧な低音の塊にならず、リアルな楽器の形状や動きを髣髴とさせ、ピアノの硬質でしかも煌(きら)びやかな音色の生々しさが演奏者の溌剌とした悦びを語っているようだ。

これに比べると、ケンウッドのアンプで聴いていた音は、あくまでも透明で、歪み感が払拭された綺麗な音だったが、それはいわば電気的なフィルターを通して純粋培養したかのような人工的なものだった、と思える。

高音域はやや荒削りな印象を受けたのが、これは逆に演奏の実体に近い生々しさの現れであろうと思われるのだ。
音楽 | コメント:0 |
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