気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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華麗なる激情 その2

(前項よりのつづき)

この曲は難曲といえるほどの技巧を要する曲だが、決して甘くならずに哀切かつ優美な曲想を見事に弾き切っていた。

第1楽章の終盤で気がついたのだが、その余りの演奏の激しさに弓の糸の何本かが切れ、弓を動かすたびにそれが弓の先端でひらひら舞っている。
確かに高音域でのフォルテシモの連続で糸が切れることもあるのだろうが、今までに見たことはない。

ぞくっとするような美人で、美少女だった面影を残し、今正に中年の鳥羽口に立ったところの成熟過程にあるのが見て取れた。

ヴァイオリンがソロで話しかけ、それに後ろのチェロやオーボエやフルートが答えるのだが、話しかけたあと、斜め後ろを振り返って応答する楽器の奏者を見る時の艶然とした笑みが、咲き乱れ舞い散る桜花のようにあでやかである。
指揮者も男性オケの楽員もうきうきしているように見えた。

激情に身を任せ、猛進するごとくの演奏ぶりは、聴き慣れたこの曲を鮮烈な新境地で展開し、私は酔い痴れた。

これは凄い演奏だ。長生きはするものである。

いずれDVDを買うことになるだろう。
ちなみに、ヴァイオリンの歌姫の名は
“オランダのバイオリニスト、ジャニーヌ・ヤンセン”
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バイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 全曲 (チャイコフスキー作曲)
バイオリン: ジャニーヌ・ヤンセン
指揮: エド・デ・ワールト
[収録: 2009年4月10日, NHKホール]
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失せ物探しの果てに、思わぬ果実を拾ったのだった。

その後、気を取り直して「論理的に」探したところ、無事失せ物は見つかった。
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華麗なる激情 その1

昨夜、まだ宵の口だったが、相も変わらず仕事に没頭していたところ、筆者に返却しなければならない資料があったのに気付き、途端にどこへ仕舞ったか分からなくなった。

私は結構几帳面な性格で、整理整頓は好きで得意な方なのだが、このところというか、今の編集の仕事を始めてからは、日程に追われるばかりで、机上や室内は混沌として、惨憺たる有様なのである。

外へ持ち出す機会も必要もないので、100%部屋にあるに違いないのだが、どこへやったかの記憶の糸が途切れている。
半ばパニックのようになって、あちこちの書類の束や山を掻き分けてみたが、見当たらない。
暫し途方に暮れたが、ここは一番小休止が賢明だと思い、居間へ移動した。

漫然と煙草をくゆらし、何となくテレビを点けた。
番組欄に「バイオリン、全曲演奏」とあったのがふと気になったからである。

既に演奏は始まっていた。
チャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲 二長調』。
この曲は、若い頃耳に章魚が出来るほど聴いていた。
ほとんどのフレーズが頭に入っている。

中学の頃、音楽室で聴かされたベートーヴェンの交響曲で、いい加減クラシックに幻滅しかけていた私を、至福の調べというものがこの世にはある、と最初に教えてくれたのがチャイコフスキーなのである。

見ると、まだ若い西洋の女性が弾いている。
そして、瞬く間に惹き込まれてしまった。
最初は、正直に白状すると、豊かな胸元が今にもドレスの上端から零れそうで、あんなに激しい動きをしていたら、仕舞いにはみ出すのじゃなかろうか、とくだらないことが気になったこともあったにはあった。

しかし、その演奏たるや、そんな下種な感想を吹き飛ばすほどに、激しく華麗で、豊かだった。
(つづく)
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迷宮としての記憶庫 ―若しくは、自己同一性の根拠―(1)

ふと気になる、何か引っかかる、、、慌しい日常にあって見過ごしてしまいがちな、そんな瑣末な気懸かりが、自問自答の堂々巡りの果てに、古い埋もれた記憶を掘り起こす。

最初は、1年ほど前に新聞紙上の1頁広告の写真を見たことからだった。
それは、夕焼けを背景にした鉄道模型のジオラマだった。
何故か、とても懐かしい風景だった。思わず引き込まれてしまった。

古い町並みのジオラマ
(ttp://iei.jp/cgi-bin/goods/detail.cgi?item_no=6920254より)

高度成長期以前の、古い街の風景を切り取ったジオラマ。
そこには、どれも戦前から建っていると思しい古い町並みが再現されていた。

その後も、別の会社から2つの、同様なジオラマが発売された。
よく似てはいるが、1つは昭和のより新しい町並みを再現しており、また今夏に発売されたもう1つは「少年時代」と銘打って、夏祭りの情景を中心に、主に学校や神社や茅葺屋根の農家を配した、テーマ性のある、それゆえ一面的な構成になっていた。

週刊で75回に亙って発売されるので、思わず申し込もうと思ったが、踏み止まった。自分がそれらのどこに着目して惹き付けられているのか、その淵源を探り当てないではいられなかったから、、、

鉄道ジオラマには2つの要素があって、1つは小さいが精巧に出来た鉄道模型そのものの魅力。もう1つは、同様に精巧に再現された風景の魅力である。
前者は、幼少年時期には満たされなかった、高級趣味への憧れを充当し、後者は一種「箱庭」趣味と同様の嗜好を満たす要素である。

前者は、コレクターやマニアの欲求に見合ったものだが、後者はより普遍的で深い魅力を持っている。それは「箱庭療法」的な効果を持ったものだと思われた。

かつて「あった」、または希求されながら見果てぬ夢に終わった「少年王国」の再現。
街や自然の風景は、厳然とそこにあって、手が届きそうでまだ届かない、揺るぎない秩序をもって、きらきらと光る王国のように誘い、あるいは立ちはだかり、その1歩手前で幼い自分が立ち竦み、あるいはどうにかしてその秘密を探ろうとしている。

そういう、鮮烈な緊張と魅惑に充ちていた幼児期の再体験、またはやり直しの入り口がそこにある、と思われる。
(この項、未完)
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昔のことだが、、、

時々ふっと思い出す。
その語り手の穏やかな語り口とバックに流れていた音楽の醸し出す安らぎに満ちた時間に、もう一度ただ身を任せてまどろみたくなるようなラジオ番組があった。

もう20年も前になるだろうか、、、

ある年の夏の終わり頃だったか、家内の里帰りに同行して、いつもなら夕方の時間帯に着く列車に乗って京都まで帰ってくるのだったが、その時はひどく遅い時間に駅に着いた。
もうバスは走っていなかったので、タクシーに乗った。

ラジオ番組が流れていた。

慌しくイライラしたような民放の番組ではなく、NHK第一の静かな番組だった。
背景に童謡の旋律が流れ、穏やかな口調で中年の男性アナウンサーが読者からの手紙を読んでいた。

静かに思いを心の中に広げていくような優しい響きの声。
途中に何度も無言の間合いが挿入された。

間合いの取り方が精妙で、言葉の反響が隅々まで心に広がった頃、おもむろに次のフレーズが語り出される。

日頃、酷い仕事の日程に追われ、息つく暇もないほどの私の心に、それは慈雨のように沁み込んできた。

“夕焼けこやけの 赤トンボ 負われて見たのはいつの日か、、、”

私はほとんど嗚咽して、落涙しかけていたと思う。

後にも先にも、この時の語りほど心に沁み込む語りを聴いたことがない。

正確な年を覚えていないのだったが、あとから調べてみると、それは開始当初の頃と思しい“ラジオ深夜便”という番組だったようだ。
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