気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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凄愴な短詩

あるところで紹介されていた富澤赤黄男の俳句。

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○落日の巨眼の中に凍(い)てし鴉(からす)

 一木(いちぼく)の凄絶の木に月あがるや

 沛然(はいぜん)と雨ふれば地に鉄兜(てつかぶと)

 黄昏(く)れてゆくあぢさいの花にげてゆく

 枯木の義手の 穴だらけの時間よ

 無題の月 ここに こわれた木の椅子がある

○零(ゼロ)の中 爪立ちをして哭(な)いている
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高校時代に無季自由律俳句に触れて、とても新鮮な衝撃を受けたことがあった。
単なる短詩ではなく、定型的な音数律が内在化されていることにより、一層の衝迫力をもって迫ってくるのだと思う。

○をつけた句が特に、凄絶の気を叩きつけているように感じた。
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詩・短歌 | コメント:0 |

“リミット”

(2009年07月23日)
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昔から所謂『連続テレビドラマ』というのがあまり好きではない。

中学生の頃だったか、“おはなはん”とかいうドラマを見て、退屈でいらいらしたことがあって以来かもしれない。
教訓的だったり、類型的だったり、ほどほどにバランスをとって、最後は小市民的価値観を懐柔的に補完する物語。

若い頃、僅かに楽しんだドラマとしては『探偵物語』とか、それから『私立探偵 濱マイクシリーズ』なんかは頗る面白かった。
あと、向田邦子作品のドラマ化は好きだったし、久世光彦のいくつかも。
こうして並べると、選んで見ていたようだ。

よくある刑事ドラマというのも大抵はつまらないが、「半落ち」から注目して見るようになった横山秀夫作品は良かった。

NHKの土曜ドラマ『はげたか』というのも見応えがあった。
NHKでは大河ドラマや連続テレビ小説などは好きではないが、土曜ドラマやシリーズものの時代劇は結構見ている。

で、今回は武田鉄也が出演している刑事物ドラマ『リミット』。

既に2回分が放映済みだが、金八のイメージが強い武田が訳あり・影有りの初老の刑事を演じ、凄みがあって良い。

出世コースから外れ、その無法な捜査手法で署内では煙たがられているが、犯人検挙率がスバ抜けているため、誰しもが一目置いている。
彼は、ある過去の不幸な事件によって妄執に近い怨恨を抱いているのだが、もともとは正義感溢れる熱血刑事だった。

何故刑事をやっているのかと問われ、“俺は人間を憎むために刑事をやっている”と言い放つ彼の内部の闇。

公園にテントを張っているホームレスが目障りだと、掃除屋と称する「便利屋」をネット経由で雇い、テントに放火させて焼死させた首謀者である町内会長がいた。

その会長が「ホームレスはゴミと一緒だ」と武田に言う。
武田は、その会長の首根っこを引っつかみ、死体安置所に収納されている“ホームレス”の遺体を見せ付けて、「言ってやれ、あんたがさっき言った“お前達はゴミと一緒だ”という言葉をこの男に言ってやれ」と迫るシーンは胸に迫るものがあった。

武田演じる刑事は、「ある人間を殺すために」刑事をやっている、と相方の若い刑事に言った。
これから、いよいよその核心が明かされようとしている。
雑記・覚書 | コメント:0 |

『京都宵』

(2009年07月22日)
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井上雅彦編になるアンソロジー“異形コレクションシリーズ”(光文社文庫)の1冊。

これの前に読んだ同シリーズの『幻想探偵』はハズレが多かったが、この『京都宵』は推薦に値する。

テレビドラマでも小説でも、「京都弁」がよく出てくるが、地元で育って日常的に京都弁の中で暮らしているものにとっては、よく出来た作品でも時として噴飯ものの京都弁に出喰わしてがっかりさせられることは多いのだが、このアンソロジーは京都出身の作家が多いせいか、身に染み付いた生の京都弁が味わえ、“そうそう、その微妙なニュアンス、あるある”と、膝を打ってしまう。

作品としても、この集はハズレが2,3で、先の『幻想探偵』とは真逆なのである。

舌を巻くような生粋の京都弁が横溢する作品としては、
「テ・鉄輪(かなわ)」入江敦彦
「夜の鳥」化野燐
「衿替(えりかえ)」森山東
などがある。

中でも「夜の鳥」(化野燐)は、京都の“言うに言われない”気色悪さが見事に描き出されていて、悪夢が纏わりつくような「あの嫌な感じ」、肌にべっとりと張り付くような気持ち悪さが味わえる。
作者も、京都を偏愛する作家のようだが、何度も訪れては、あの名状し難い<排除>と<異化>作用の妖術の餌食になった体験の持ち主なのだろう。

上の3作とも怖いが、他にも「後ろ小路の町家」(三津田信三)は、古い京都の町並みの郷愁と都市伝説を融合させることに成功している。

「魔道の夜」(森真砂子)も達者な筆力で読ませる。
戦後間もなくから高度成長期までの古い時代を書かせれば、この人に敵うものはそういるまいと思わせる。

そういえば、この間バスに乗っていたら、横に旅行者らしき小太りの若い女性が座った。
本を出して読んでいたので、ふと興味を持って覗いたら、なんとこの『京都宵』であった。

中々こういう巡り合わせもあるものではない、と声を掛けそうになったが、何かばたばたと落ち着きがない。
何か飲んでいるなと思えば、お茶ならぬジュースだったり、本をバッグに入れたり出したり、、、

本もぞんざいに扱っているので、相手にならない方がいいように思えて、声をかけそびれてしまった。
読書断片 | コメント:0 |

それから、、、

( 2009年07月22日)
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プラトーノフ『粘土砂漠』と『ジャン』。

こういう種類の小説を読んだことがなかった。

文学表現としてではなく、描かれた世界の極北性に打ちのめされる。
人が物や石ころと同等な地平すれすれに存在する世界の様相。

『ジャン』は途中で耐え難くなったが、それでも勢いをつけて最後まで読み進んだ。

ほとんど神話的な域にまで到達しかけている、人間生活の<原像>とでも言い得るような世界。

そして、最終的に訪れる奇跡のような復活と再生。
どこまでも続く地平線の彼方、四方に散ってゆく人々の影に光が見えた。
読書断片 | コメント:0 |

50年後、、、

今日、Kという小学校時代の同級生と会ってきた。
元々互いの実家が同じ町内にあった。

待ち合わせの神社の鳥居のところまで行くと、顔がよく判別できないほどの距離から、特徴的な歩き方で直ぐそれと知れた。少し猫背で体を波打つように上下しながら歩くのである。
苦労した体験の累積がそのまま顔に出ているように感じた。
どこかしら微かに痛ましさの感覚が顔に出ている。
何事かを成し遂げたあとのような老成した印象がある。

元気そうだった。

波乱に富んだ紆余曲折の人生を歩んできたようであった。
四国の某大学に入学したものの、学生運動にのめりこんで退学処分になり、已む無く次に東京の某大学に再入学。今度は司法試験を目指したが、結局挫折したそうだ。
一時は、生活の面倒は見るから職業革命家にならないか、とセクトから勧められたこともあったらしい。

結局その大学も中退して転々とした挙句、何とか某メーカーの営業の職に就く。
営業の才覚があったようで、ある営業所の所長にまでなって数年前に退職。今は自営で不動産業をしているそうだ。

元々は野球少年だったのだが、中学時代に体を壊して止めたあと「することがないので」、猛勉強して高校では理数系で優秀な成績を挙げたという。
同じ高校に通っていたそうだが、何故か全く記憶にない。何故だか分からない。

問題があって精神的にも経済的にも手の掛かった子どもが、やっと数年前に経済的に自立したことで、肩の荷を下ろした気になり、ほっとしたせいもあるのだろう、“もう還暦になったのだから”ということを、しきりに強調した。

営業畑の人間らしく、よく喋る。笑みを絶やさず、相手の反応を窺いながら、それとは察知されぬように気遣っている。

本は、孔子とか中国の古典をよく読むそうだ。

ネットはあまり利用しないと言っていた。
人間関係は一旦関わりを持つと大変気になる性質で、“適当に”(ほどほどに)付き合うというのが出来ないので、それでネットを介しての繋がりは持たないのだという。
人との距離感が近い感覚の持ち主で、根が真面目で几帳面な性格なのだ。

かつて刑務所からヘリコプターで脱走した囚人がおり、当時の首相の超法規的措置により国外へ逃れたそうだが、彼の近しい友人だったそうだ。
忘れていたが、そういえばそんな米国映画そこのけの事件があったような朧気な記憶がある。
その男がのちに中東で乱射事件を起こしたらしい。
また、学生時代の親しい友人が、今米国の刑務所に入っている、とか、、、

淀みなく話し慣れている感じがするのは、営業職時代に何度も繰り返し人に話したことがあったのだろうか。
私には、彼がこれまでの人生を何度も反芻し、反省的・自覚的に生きてきた証左のように思われた。

彼がまだ現役の頃、営業の仕事で連日深夜の帰宅が続いたある日、息子がむしゃぶりついてきて、組み打ちの親子喧嘩をしたことがあった。
間近で見る息子の頬に伝う一筋の涙のあとが目に飛び込んできて、“こいつはほんとに悩んでるんやなぁ”と彼は思い知ったという。

胸襟を開いて語る彼は“OK”だ、と私は思った。

無宗教の自分の墓を作ってあって、家名などは刻まず、どこにも入るところがないなら、そこに入ればいい、と皆に言っているのだそうだ。

今は仕事は極端に少ないが、1つ1つの仕事を手抜きせず、着実に最後までやり遂げるのを第一に考えている、と自分に言い聞かせるように言ったのが印象的だった。

彼には家族にも話していない「精神的疾患」がある。
強迫神経症のようだが、踏み切りの仕切り板の上げ下げの時間がとても短いように感じて、事故が起きやしないかと酷く気になったり、ガスを消し忘れたのではないか、など些細なことが大変気になってしまうのだとか。

彼に言われて思い出したが、町内の外れに稲荷を祀った見捨てられたような祠があったのだが、彼が高校時代のある日、急に気になって放って置けなくなり、毎夜水を替えに通ったという。
このことは彼が、見捨てられようとするマイナーな存在に対する気遣いのできる人間であることを表すと同時に、反復的常同的行動に陥りやすい特殊な心性の持ち主であることを示唆しているように思える。

強迫神経症的な「症状」は、元々が体育会系の人間が好きでもない勉強をしたり、拘置所に入っていた体験などから来る後遺症みたいなもんだろう、と本人は言っていたが、どこか彼は深く傷つき、それを人に悟られないよう、さも大したことではない、と前もって「いなす」習性を身につけてしまっていると思われた。
目を見て話すが、話が深くなる寸前にふと視線を外す、そんな微妙な瞬間を何度か見た。

口元の微笑を絶やさぬまま、目が内心の遠くを見やり、心を泳がせている。

それは、人に余計な痛みの感覚を負わせまいとする彼の優しさだ、と私には思えた。
車から私が降りようとすると、彼は私の肩を叩き、“まぁ、頑張っていこうや”と励ました。

私には<いつも一緒だ、いつもここにいるぜ>と聞こえた。

別れてから反芻してみた彼の印象が、小学生だった頃と基本的には少しも変わっていないことに、少し驚いた。
随想 | コメント:0 |
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