気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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気配と囁き

一体、真に話しているのは誰か、そして誰が書いているのか。

わたしたちが孤独でいる夜にあって自らの内なる闇の底へ降りて行き、耳を澄ませて何かの気配を感じ取り、また何者とも知れぬ囁きに耳を傾ける時、かすかに聞こえるのは誰の声か。

通常それが自分だと感じている「自我」は単に舵取りをしているだけであり、真の<自己>というのは意識された自我のレベルのもっと深い底にあって、個我よりももっと巨きなものだ、というユングの言葉を思い出しておくのもいいだろう。

存在することそれ自体が、われわれ自身の前もっての恣意的な選択によって齎されたものではなく、気がつくといつしか既に在ったものに他ならない。
私たちが自分のものだと主張している、この<在る>は、私たちに十分に帰属したものと言うことはできない。

思惟と意識のいま正に生起しようとする刹那の境界は、無名性と個我の意識の萌芽の薄明のうちに溶け込んでいる。

それゆえ、言表と記述の基底では不断に無名性の闇の底から思念と形象の萌芽が次々に湧き上がり、われわれは単にそれを個々の恣意的な方向づけというささやかな修飾をあえて施し、あるいはたかだか貧しい好みの色合いに塗り上げることで、僅かな独自性を主張しているに過ぎない。

真に語っているのは<だれ・なに>か。

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ここでスピリチュアルな論議やヤハゥエのことを話しているのでは、もちろんない。
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随想 | コメント:0 |

翻訳の切れ味

3年前に受洗して以来、家人の<霊的>精進は著しい。

これまでは、いつも私が半可通な知識で持って掻き回していたのが、最近ではビシッと「それは理解が浅い」などと手厳しく糺される体たらくである。

以前にも<愛>に関する言説を、キリスト教に関する書物から紹介したが、その書『キリスト秘儀と救いの歴史』(ヴィクトール・ワルナッハ、あかし書房刊)はキリスト教の本質に深く鋭く切り込んだ優れた書物である。

この書物の特徴の一つは、翻訳が優れていることである。

試みに、その一節から引いてみる。

「終末論的な変化

 ある種の似非スコラ的な誇張は論外として、不当にも多くの人は実体変化説をあれこれと論じ、秘儀を合理化し、事物化しようとする傾きがあると誤解している。
 これに対して、この説が秘跡の<霊>的な性格を徹底的に考慮しているものであることを強調しておかなければならない。例えば、主のからだと血は『<霊>的な食物』であり、キリストの<霊>もあの変化を引き起こすものなのである。
 その上、この説には明らかに終末論的な、つまり超越を強調する要素がある。〔本質の変化というものは、永遠が地上に討ち入ることであり、したがって純地上的な次元が突破されることなのである。〕こうして地上的な実体は、キリストが神的に存在し生きる世界に取り込まれる」

上の引用の中の〔 〕で括った箇所の鮮烈な表現には目を見張らされる。
翻訳者は「土○吉正・福○○男」とある。

訳者の福○氏に関しては、家人は教えを請うている関係があり、過日この箇所の切れ味について、その素晴らしさを伝えたところ、彼は我が意を得たりとばかり莞爾と笑い、あの部分はある映像を見ていて思いついたのだ、と。

キリスト教に関してあれやこれやのお伽話にうんざりしながら、より本質的で深い記述に触れたいと切望される諸兄姉にはお勧めの書物である。
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黒き館のノート・異聞 おそらく、、

このままいくと、その老婦人の方から、大学ノート以外の新たな資料や背景情報が齎されない限り、一連の謎めいた事象の解明は放っておいてどうにかなるようなものではないだろう。

何かの新しい<干渉>や<啓示>のようなものがなければ、、、
と考えていた。

その夜は、色々とこの事案について妻と話していたのだったが、その中で私は、W・イェーツのことを話した。

W・イェーツというのはアイルランドの詩人、劇作家で、イギリスの神秘主義秘密結社「黄金の夜明け教団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)」のメンバーでもある。
彼には、『幻想録』という魔術的思想に関する著作があるが、その草稿は彼の妻が自動筆記によって書いたものだという。

「今は<それ>から何も干渉もないが、ひょっとして君に何かが憑依したりして」と笑いながら話していたのだった。

その夜、いつものように12時頃床に就いた。妻は10時には寝床に入っていた。

ふと目を覚ますと何か階下から音と声が聞こえてきた。
どしんどしんという音とともになにか叫んでいる。

時計を見ると午前2時だった。
慌てて階下の居間にいくと、恐ろしい光景が展開していた。

妻が髪を振り乱して、見たこともない恐ろしい形相をしながら、仁王立ちになっている。
天井の一点を見据え、床をどすどす踏み鳴らしながら、聞いたこともない男のような底響きする胴間声で叫んでいる。

「悪魔よ、去れっ。悪魔よ、去れっ」

目が完全に据わって、何かが取り憑いているようだった。
私の方を見ようともしない。それどころか、益々様相が只ならぬものになっていく。

居間には、渦巻くような物凄いエネルギーが充満しているのを感じていた。
妻に触れるのが恐ろしい気がした。

警察? それとも救急車か?
その時、私の脳裏に閃いたのは、毎週妻が通っている聖書の勉強会を主宰している、ある神父のことだった。

彼は、以前海外で宣教していた時、悪魔払いをしたことがあると言っていた。
彼は“黒いバチカン”とも言われることのある修道会“イエ○ス会”の出身者だった。

直ぐに電話をかけた。
30分ほどで、彼は聖水と厳(いかめ)しい造りの十字架を持ってやってきた。

(つづく、これはフィクションです)
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