気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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武術の達人

昨夜、友人と話していて、色々昔のことで思い出したことがあった。

あれは、、、1997,8年頃のこと。今から10年ほど前である。
その頃から整体業の修行を始めたのだったが、ほぼ同時期にいわゆる“古武術”に関心を持ち出し、あれこれ資料を集めて読んでいたことがあった。

元々“気”や漢方系の整体や指圧に興味があって、その一連の流れで興味を持ったのだった。
指圧や東洋医術への関心を持ったのは古く、学生の頃からだが、10年ほど前に、ある整体師がその著作の中で、前半生を主に頭脳労働ばかりに関わってきた人は気の流れが偏向していて心身の均衡を欠いている、だから後半生は身体の接触を主とした仕事や運動をしたほうがいい、と書いてあったことから、整体と武術に興味を持つようになったのだった。

古武術というのは、現在で言う「柔道」や「剣道」などというスポーツ化した「武道」ではなく、戦国時代頃より連綿と伝えられ、集約された実戦的格闘術の総称である。
現在でも各地に様々な流派が伝えられていて、剣術、柔術、槍術、弓術、手裏剣術などの多岐に亘る武術の戦闘技法を総合的に修練するようである。

調べてみると、その頃住んでいたO県のある地域には“抜刀術”を主に伝えている流派があった。今で言う「居合い術」である。
また、京都にも戦国時代からのある流派があって、そこでは実際の戦ささながらの鎧兜を装着しての修練が行われるようであった。

明治時代頃は、まだ柔術家というものが市井に存在し、多くは道場を構え一派をなしていたらしいが、中には一匹狼的な者もいて、各地の流派道場を巡って、道場破りで生計を立てていたものもあったらしい。
柔道とは異なり、“実戦的な”格闘術であるから、投げなどの技を競うのではなく、関節を決めたあと実際に骨を折ってしまうこともあったようだ。

相当な実力の持ち主であれば、向き合っただけで相互の力量は戦わずして分かるので、腕をへし折られそうだと見て取った道場主は、実際に戦う前に金一封を差し出して、丁重にお引取りを願うのが通例のようであった。

現代にも武術の達人は幾人もいて、中でも私の目を惹いたのが「日野 晃」という方だった。
雑誌に載った写真を見ると、剃刀のように研ぎ澄まされた野獣といった趣きで、一種凄絶な面相であった。

彼が武術の研鑽に明け暮れていた時のこと。
「朝から夜中まで」自分の「身体の変化」を探ることに熱中して3ヶ月経った頃、突然原因不明の高熱(42,3度)が出たことがあった。
「まるで、生け花の剣山をヘルメットにし、頭をすっぽりと覆い、その上から金槌でガンガン叩かれているような痛み」だったそうである。

それでも練習を休まずに続けたところ、4日目に何故かケロッと治ってしまった。
それから不思議なことが彼に起きた。

「道を歩いていて、ふと太陽が背中にあたっていることに気付き、涙が出」る。
「花を見ても、水面を見ても、とにかく何気ない日常に涙が出」る。
特に信仰心があるわけでもないのに、「高野山に行きたくなったり、比叡山に登りたく」なる。

それ以来、彼には特殊な治癒能力が備わるようになって、手をかざすだけで相手の身体の悪いところが分かって治せたり、怪我を治癒することが出来るようになったそうである。

身体を極限まで追い詰めると、その果てに心身の劇的な変化が生じる。
それが、様々な宗教などの荒行や苦行における修行の内実であろう。

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ここに画像があった。
http://budo.seesaa.net/article/61011921.html

検索してみると、彼はなんと、、、

「日本のフリー・ジャズのドラマーとして山下洋輔や坂田明と共演、また阿部薫の最後の公演にトリオの一人として共に演奏。」
とあった、、、

知らんかったなぁー、そういう人やったんか、、、
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随想 | コメント:0 |

ささやかな、法則の発見

実は常々思っていて、人には言っていない秘密の研究があるので、、、

かねてより、自らの髪の毛の存亡に関して、密かに憂いをもって日々を送っているところのわたくしにとって、他人の髪の毛の逸失状態の観察については、常々怠りのないところである。

しかるに、わが伴侶と2人3脚で蒐集した事例を統計的に鑑みるに、それに関して揺るがし難い法則性を看取するに至ったので、それを報告してみたい。

タイトルは“各血液型に見る髪の毛の存亡状態に関する現象学的考察”というのである。

最も一般的に見られる頭頂部における円形状の髪の毛の脱落は、O型に多い。
また、前額部から頭頂部にかけて頭髪の脱落部分が駆け上がる形式はB型に多い。いわゆる落ち武者型ともいうべきものである。

それから、これが誠に顕著にして、実にこれこそ造化の妙だと唸ってしまうのが、A型に多い「行者ハゲ」ともいうべき形態の亡失状態である。
この名称は、山伏の正式な装束における、額に被せる小さな6角形の帽子状の被り物と位置と形が似ているので、命名したものである。

AB型については、症例数が乏しく、統計的に有意な結果を見出すことができなかった。

上の法則は例えば、黒猫はほぼ99%人懐こく、白猫は大抵気難しい、という法則と同等の信憑性があると、密かに思慮するものであることを、ここに告白するものである。

わたくしの頭頂部には、それは見事な天使の輪ともいうべき麗しい光輪のような薄毛状態が現出しつつあり、毎回理髪店で整髪状態を合わせ鏡で見せ付けられる度、その脱落途上のえも言われぬ儚い麗しさに危うく失神しかけ、椅子から転げ落ちそうになるのを堪えるのは、まことに至難の業であることを報告して、ささやかなこの考察を締めくくりたいと思う。

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(補足)
A型が行者ハゲになりやすい、という観察報告は、かつて一度だけ確かネット上の何かで読んだような曖昧な記憶があるような、ないようなである。
というわけで、上の法則に関しては全くの独創的な発見というには内心忸怩たるものがあるので、ここに注釈の形で記しておきたい。
雑記・覚書 | コメント:0 |

『草祭』(恒川光太郎) 私的感想文

恒川作品については、第1作目の「夜市」からずっと読んできた。
筆力があり、書くべきものをしっかりと自覚した本物の作家だと思うが、第2冊目以降の作品はどれも「夜市」を超えるレベルに達していないと感じていた。

『夜市』は本当に傑作で、「世界の根」のところまで表現が届いている、深い元型的なイメージ喚起力を持った作品だった。

昨年12月の半ば頃に、新らたに発刊された第4冊目の短篇連作集を読むまではそう思っていた。
その短篇集の最初の1篇を読み終わった時、憎悪や怨恨などのどす黒い塊を無理やり飲み込まされたような違和感が充満して、一時はもうこの作家は終った、もうこれ以上読むまい、とまで思ったのだったが、折角買ったのだから最後まで読んで、そこでこの作家に引導を渡そうと思い直し、渋々再度挑戦したのだった、、、これが予想に反して滅法面白く、読んで損はないと人に勧めたくなった。

この作家の作物には、いつも<異界>が登場する。
そして、その異界は、私たちが現に住んでいるこの世界と紙一重のところにいつも張り付くように存在していて、ある種の通路を介して交通し得るかのように設定されている。

仔細に観察していくと、実はその異界と見えたものは、この世界の本来的実相であって、真に<異>界とはこの現世に他ならない、ということが看取されるに至るのだ。

作家の表現行為の根底には、恐らく幼少期に信頼すべき対象から手酷い裏切りにあい、本来過不足ない少年王国の住人たるべき存在であるはずの自己が、その心的外傷ゆえに、この世界の外に存在するかのような心性を持たざるを得なくなった、という契機が存在しているように思われる。

集中の「くさのゆめがたり」はこの作品集の圧巻である。
また「天化の宿」に登場する<世界ゲーム>には汲めども尽きせぬ興味を惹かれた。

この作家には、この世界を覆う薄膜一重の向こうに、ありありと<異界>(本来の世界)が確かに存在しているのが見えている。
読書断片 | コメント:0 |
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