気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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ポール・ポッツ、再び

あれは6月頃だったか、あるテレビ番組の奇跡的な出来事というコーナーで紹介されていた男性の話。
一夜にして、賞賛の嵐に包まれた青年。
実際に起こったのは昨年のことだったようだが、それ以来本当にプロのオペラ歌手になったらしい。

ついひと月ほど前に、一度だけCMでも目にしたことがあった。

声が良い,、そして人を感動させるほんとうに大事なものを彼は持っている。
それは喜びをもって歌うことそれ自体への熱い思い。

彼に比べれば、他の高名なテノール歌手は技巧的には卓越しているのかも知れないが、人を心底感動させる大事なものが欠けている。
上手いというだけでは人の心の奥底までには届かない。

以下、旧稿より。

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こみあげるもの、、、(2008/06/06)

彼はそれまで市井に埋没して生きる平凡な一市民に過ぎなかった。
携帯電話の販売員だった彼は、自分の一番好きなことをして、ほとんど一夜の内に賞賛の嵐に包まれ、世に認められる存在になった。

幼い頃から容姿に恵まれず貧乏な家に育った彼は、いつも嘲笑と蔑みの格好の標的だった。そんな彼にとっての慰めは、好きな歌を歌うことだけ。

ある日、彼は家で一枚のレコードに出遭う。
それは、ある高名なオペラ歌手のレコードだった。それを聴いた彼の中で熱い思いが沸き上がる。
聖歌隊で聖歌を歌うことが唯一の楽しみだった彼にとって、いつか大ホールでオペラを歌うことが密かな夢になった。

しかし、貧しさからボイストレーニングの費用も払えなくなり、いつしかその夢も諦めざるを得なかった。
大学を出てスーパーの店員、そして携帯電話の販売員をしていた彼はあるオーディション番組の募集を知る。
その会場は、夢にまで見た大ホールだった。それに出て、生涯に一度だけそこで歌を歌い、夢を諦めるつもりだった。

あらゆる雑多なジャンルで埋め尽くされた出演者のほとんどは大道芸や色物のような出し物ばかり。辛辣な批評で知られる審査員、完膚なきまでにこき下ろされ凹む出演者を見て楽しもうという観客。

やがて彼の出番が来て、彼が歌い始める、、、
最初のフレーズを歌い出した瞬間から、会場は水を打ったように静まり返り、呆然とする観客、審査員、、、

奇跡は起るべくして起った。
歌い終わった彼に、会場から沸き起る絶賛の嵐。
(6/5、フジテレビ系『奇跡体験!アンビリバボー』の放映より)

鳥肌が立つような、高らかに燃え上がるような彼の歌声に、我知らず嗚咽が洩れるのを抑えることができなかった。



ポール・ポッツ、デビュー・アルバムのタイトルは、
“One Chance”
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音楽 | コメント:0 |

戯作三昧

(2008年12月21日)

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やくざな世間を斜(ハス)に見て
空に嘯き口笛吹けば
やけに目に染む茜雲 (ふいと頭に浮かんだ戯作)

なんてね、、、

そういえば、家人も口笛がどうしても吹けないのであった。
しかも自転車にすら乗れない。

美人だが足は弱い。
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読書断片 その2

(2008年12月10日)

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以下は、ヴィクトール・ワルナッハ『キリスト秘儀と救いの歴史』(あかし書房)からの抜書きである。

「<愛>が他者を愛するのは、エロスの場合のように相手が善いからではない。むしろ決定的に人格的な、しかし決して個人主義的ではない意味で相手が自分自身だからである。<愛>は相手から何かを求めるのではなく、相手を、紛れもなく掛け替えのない人格として実存しているその人自身を求める」

「<愛>が他者を求めるのは、エロスが相手の中に自己充足を、結局は自分だけを、『理想の自分』を見出そうとして『あなた』を自分に引き付けるのとは違って、自分のためにではない。むしろ<愛>は相手を、まさにまたとないただ独りだけのその人自身であるからこそ、相手自身において求めるのである」
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読書断片

(2008年12月10日)

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今朝目を覚ました時、不用意に伸ばした手が寝床の脇にある低い書棚に触れて、1冊の文庫本が倒れた。

日に焼けた古い文庫本で、自分で紙のカバーをかけペンで書いたタイトルは退色してほとんど読めなくなっていた。

中を見ると『経済学・哲学草稿』(マルクス)であった。
頁を繰っていくとあちこちに傍線が引かれ、余白には確かに自分の筆跡で鉛筆の書き込みがそこいら中にある。
熱心に読んでいたのだ。

これも何かの暗合かもしれないので、傍線部分から引用してみる。

「人間は一つの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物をも彼の対象にするからであるが、そればかりではなくさらにまた、人間は自分自身にたいして、眼前にある生きている類にたいするようにふるまうからであり、彼が自己にたいして、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在にたいするようにふるまうからである」

「人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である」
「したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質となったかが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現れる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる」

「また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係のなかに示されているのである」
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二階堂、、、

(2008年12月01日)

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今日漫然とテレビを見ていたら、CMになりぱっと出た映像とともに流れたBGMに聞き覚えがあって懐かしさの感情がどっと溢れ出たと思うと、それはあの『二階堂焼酎』のCMだった。

久し振りに見たのだが、前に見たのはもう半年ほど前だったか。

何か甘美な悲哀と郷愁の感情に充たされながら、流されていってしまいそうになる、、、



随想 | コメント:0 |

読書メモ(つづき)

3)ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』岩波文庫(1902年発表)
4)尾崎 翠『第七官界彷徨』ちくま文庫(1931年発表)

3は、今頃読んだなどと言っては恥ずかしいほどの古典的名品。
何となく今更という気がして、ずっと本棚の飾りになっていたのを、手にとってみた。
世紀初頭に書かれたマニフェスト的小品。

既成の言語表現体系が瓦解し、意識が世界と乖離する地滑り的地平で、実在それ自体が壮麗に立ち上がる様相が煌めくような筆致で描かれている。

4も今更という感がするが、まだ私が20代だった40年ほど前、薔薇十字社刊行の『アップルパイの午後ー尾崎翠作品集』(1971年)に収載されて再び世に現れ出た佳作。
当時から世評高く、どちらかというと若い女性に人気があった。

不可思議なテイストを持った短編で、読み進むうちに段々世界の境界や輪郭が茫洋としてくる。どこか現実感を欠いた人物がそれぞれ自分自身の世界に没頭している有り様を描き、直接は触れられない水面下で何事かが起こりそして終焉を迎える。

“第七官界”とは、第六感のそのまた上位の感覚によって見出されるべき世界の様相を指す概念のようだが、<意味>の不分明な仄めかしのうちに事態が進行し、明瞭な輪郭を帯びないままに終息していくさまは、意味未生以前の深い識域下の出来事のようにも感じられる。

ネット上で<阿頼耶識>との関連性を指摘するテキストを見つけ、読む気になった作品である。大人のためのメルヒェンとでも言うのが相応しいテイストを持っている。
読書断片 | コメント:0 |

読書メモ

このふた月ばかしの間に読んだ書物。

1)岩井志麻子『『夜啼きの森』角川ホラー文庫(2001年)
2)『大乗起信論』岩波文庫
3)ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』岩波文庫(1902年発表)
4)尾崎 翠『第七官界彷徨』ちくま文庫(1931年発表)

などなど、、、

時間が掛かった順で言うと、2、1、4、3という具合になる。
2は、脳内でじっくり熟成させてから肝だと感じたことをその内、アップする。

1は、著者初めての長編ということだった。
かの「ぼっけぇ、きょうてぇ」で衝撃的なデビューを果たしたのは1999年だったから、その2年後の作品である。

有名な“津山30人殺し”事件に材を採ったものだが、数ある男性作家作品の切り口とは異なり、作者特有の土俗的な官能的逆ユートピアを描いた作品と言えるだろう。
長く近親婚関係が累積して形成された、閉ざされた山村の中心に“森”がある。それは、貧困と錯綜する人間関係の軋轢の狭間で展開される村人達の、夜毎の淫らな交わいを見守るかのようにいつも“そこ”にあった。

月が昇り森の梢の端にかかって冷えびえとした夜空に風が吹く。森が泣く、、、
爪弾きにされた肺病病みの青年と最底辺の家族、そして村一番の金持ちの一家、流れながれて辿り着いた余所者のいかがわしい似非祈祷師家族、疎外された者達が眼に見えぬ糸で結ばれ、やがて約束されたかのように劇が開幕する、、、

主役は誰か特定の人間というのではなく、封じ込められた共同体の歪みが臨界点に達した自浄作用のようにも見える。
作者の世界観が濃厚に静かに記述された作品と言えよう。
語り口は重く、時に物悲しく、時に清浄感に満ち、暗いがしかし柔らかくすべてを溶け合わせるかような性的営みを記述して止まない。

(この項、未完)
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『大乗起信論』より抜粋(私的メモ)

(2008年11月27日)

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第二 第三段 第二章末尾

「復(また)次に、究境して妄執を離れんには、当(まさ)に知るべし、染法(ぜんぽう)と浄法とは皆悉く相待(そうだい)にして、自相の説くべきものあること無し、是の故に、一切の法は、本(もと)より已来(このかた)、色(しき)にも非ず心にも非ず、智にも非ず識にも非ず、有にも非ず無にも非ず、畢竟して不可説の相なりと。而も言説するあるは、当に知るべし、如来の善巧方便にして、仮に言説を以て衆生を引導するのみ。其旨趣は皆念を離れて真如に帰せしめんが為なり、一切の法を念ずれば、心をして生滅せしめて実智に入らざしむるを以ての故なり」
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夢の解説

(2008年11月26日)

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先に挙げた夢についてだが、表面的には昼間の思考が反映しているようである。

24日に長崎で行われた、日本では初のカトリックの式典、江戸時代の日本人殉教者188人に、最高位の聖人に次ぐ「福者」の称号を与える「列福式」をネット中継で見たのだが、その時感じたこと。

その時、“主の大いなる愛に包まれ、、、救われる、、、”など、愛と赦しと秘蹟という言葉が盛んに使われていて、愛と救済の宗教という意味合いが強調された祈願文が読まれていた。

仏教宗派の中の浄土真宗における“阿弥陀如来への絶対的帰依”という信仰の形によく似ている、とつくづく感じたのだった。

ただ、そういう信仰のありようは、一般的には意味を持つにしても、私自身はそれほど関心がない、と意識的な部分では思っているのだが、そのことを断言できる自信はない。

まだ家人が入信していなかったある時、キリスト教の入門解説書を読み聞かせていて、正教会のミサの説明の項に“とりて食え、これはわが肉と血”とあった箇所で不覚にも落涙しそうになったことを思えば、どこかで赦しと受容を求めているのかも知れない、と密かに思っているところがある。

そんなことをつらつら考えていて、先の夢になったような気もするのだが、本当の夢の真意は、表面的に考えて腑に落ちるほど浅くはないはずなので、本当のところは分からない。
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夢の断片

(2008年11月26日)

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今朝、一度目が覚めたあと、もう一度浅い眠りに入った時見ていた夢。

どこかの喫茶店だろうか、全体に木の感じで、床も板張りの、割に天井の低い店の中。
大きな丸テーブルの周りに10人ほどが座っている。

何か宗教関係(カトリックらしい)の集まりのようで、集まったそれぞれが自分の信仰体験のようなことを話す会合らしい。
進行係りらしい男性が話始めたと思ったら、私の方を見て目配せして、「では、○○さんに体験を話して頂くことにしましょう」と言っている。どこかで見た顔だと思ったら、高校時代の友人であった。

“まだ入信して間もないので、私のようなものが恐れ多いですので、、、”と、一度は辞退したものの、思い直して話始めようとしている。
何か「私の神秘体験」というテーマで話すらしい。

場面は変わって、どこかの店のようなところに入っていく。
そこは浄土真宗系?の店で、そこを経営している夫婦に申し込むと、真宗の信者として認可されるということだった。
その夫婦は、何やらばたばたしていて出かけるところだったようだ。
認可料が2万円だという。

落ち着かないので、ふと気が変わり、そこを出て歩いていくと、普通の民家があって、そこも真宗の認可をしてくれるようだった。
奥まで続いている土間を入っていって、部屋を覗くと、初老の男性と少し若い夫婦者らしい2人がいて、こちらも出かける算段をしているようだった。

聞いてみると、認可料は1万5千だか8千だか、少し安いようだった。

先の店に一応申し込んでいるので悪いが、こちらの方が商売ッ気がなさそうでいいな、と思っている。
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夢の識域(私的メモ)

(2008年11月23日)

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夢の中で、かつて見た夢を思い出すことがある。

それは、夢の中でしか思い出せない夢で、夢の中で“これはかつて見た夢だ、覚えておいて醒めてから書き留めておこう”と確かに考えた記憶は残っているが、覚めた今となっては、もうどんな内容だったか思い出せないでいる。

夢は「もうひとつの」現実であって、その意識の帯域でしか成立せず、一旦そこから外れると、記憶の回路さえもが絶たれてしまう、そんな領域が「確かに」存在する。

そして昼間の意識領域には、ほんのとっかかりの感触だけが残存しているのだった。

このところよく見る夢の形態は多重構造になっていて、複数の物語が輻輳しながらしかも形象としては一体のものである形式が多い。

多にして一、一にして多の、現れては消え去り、波立ちながら不動の、無尽蔵にして有限の貯蔵庫、阿頼耶識、、、醒めてみる夢、その仄めかし。
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