気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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夢の切れはし

(2008/04/16)

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2年以内の引越しを決めて以来、家人が家の中のあちこちを片付け始め、不要な物を捨てている。ペットロスからの気持ちの切り替えになっているのだろう。

今朝、明け方に夢を見ていた。

夜のようだがよく分からない。洗面所で歯を磨こうとして、ふと洗面台の上を見ると、色々なものが片付けられてさっぱりしている中に、見慣れぬガラス容器が置いてある。
中に砂のようなものが入っていて、何か茶褐色の粒がいくつか埋もれている。

不用意に動かした指先が当って、中のものが下に落ちてしまったその先を見ると、ネコ用のトイレが床にあって、その中に砂粒と茶褐色の粒々が零れてしまっている。

ネコが死んでからトイレは片付けたと思っていたら、まだ出したままになっている。

廊下を玄関の上がり口まで戻り、横の部屋を見ると、家人が布団に入って寝ている。
よく見ると眠ってはいないので、早く片付けるように注意する。

玄関から誰か入ってくる。身内のようだが、どうも江原某という霊能者のようにも見える。
その時、2階から死んだはずのネコが降りてきて、いつのまにか上がり口に置いてあったトイレの中の茶褐色の粒をぱくっと食べる。まだ生きていたのだ。
口にしたものはどうやらチョコレートの欠片だったようだ。

口の端にチョコレートの溶けた汚れがついているのを拭いてやりながら、父親が死んだのに、この上ネコに死なれてはかなわない、と思っている。

家人に、ネコを一度医者に診て貰った方がいい、と言っている。
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夢の切れはし

(2008/06/02)

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このところ毎晩、カラマーゾフ家を訪れている。もう1週間以上になるだろうか、、、
面白いといえば面白いのだが、寝つきはあまりよくない。何か暗澹たる気分に陥ってしまうのだ。(しかしまぁ、登場人物がどれもこれもよく喋ること^^;)

ところで、昨夜、久し振りに意味有りげな夢を見た。

学生時代からの友人で敬愛置く能わざる人物がいて、何でも伝家の宝刀ともいうべき日本刀があるが、それを譲ってやろうと言う。

昔から日本刀には関心があって、できれば所有したいものだとかねてから思っていたので、喜んで欲しいと言った。
すると相手は、只ではないが安く譲ろうと言って、9万3千円だというのだ。

ううむ、なんだかリアルな数字ではあるが、懐具合からいって妥当だと思っていると、傍にその友人の連れ合いがいて、なんだかそれでは安すぎるとか言って、旦那に苦情を言っている様子だった。

ある展示会だか美術展だかに出品された時の印刷物がある、と言って渡されたものに、その刀の由来を絵解きしたものか、絵物語風の挿絵が載っていて、丹波守なんとかという名前が見える。
古代風の装束に身を包み、何かの所作をしている絵であった。

その間も、3人連れで歩きながら話をしているのだが、自分の頭の中では、10万出しても欲しいが、どうも9万3千という数字がぴったりくると思っている。
3千円という端数は、どうも消費税相当分らしい。

やがて大きな橋のたもとに差し掛かり、そこから橋を渡るようであった。
橋の向こうは煙ったように靄っていて、その先は見通せないのだ。
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井筒学の棹尾

(2008.04.18)

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昨夜、漸く井筒俊彦「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学」を読み終えた。
170頁ほどの薄い文庫本だったが、何という濃い内容であったことか、、、

『大乗起信論』というのは短いもので、仏教の真髄を説いた仏典であり、仏教思想上で大変重要視されている経典だそうだが、それを宗教的な文脈ではなく、現代の問題意識を持って存在論・言語論・実存意識などの観点から読み解いた論考が、上記の『大乗起信論の哲学』である。

いまだ私の力量では要約するのも難しいのだが、<真如><如来蔵><一切衆生>などの仏教用語が、みるみる内に現代的な概念・用語に置き換えられ、新たな息吹を与えられて生き生きとした問題性の開示として迫ってくるその様は、胸躍るような躍動感さえ感じさせられた。

唯識で語られるものとはまた異なる、大乗起信論における「アラヤ識」の概念。
その精妙な働きを捉えること。

意味分節の原初的な生起の場所、その微細な初発のささやかな動き、そこから、全一性として自己完結している<真如>が述語的に繚乱の現実世界を展開させる。
無明は真如でもあり、真如はそのままで無明でもある。

<薫習><逆薫習>という過程が語られる最終章のくだりは、目くるめく高度な弁証法論理を紐解くような圧巻である。

全篇を通して、これほど壮麗で同時に途方もない深みを覗き込むような、一種戦慄的な論述は滅多に遭遇するものではない。

説明や論証不能の事柄を、論理性を超えて受け入れるのが信仰ということの核にあると思われるが、ここでは言語の能力を超えたものを、どこまでも意識と言葉の対象として論じ切ろうとする揺ぎない姿勢がある。

意味分節の初源的な深みへもっと踏み込んでみたい、と思った。

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追記:
小刻みに中断しながら読み続けたのだったが、起きている間には様々な出来事があり心が波立つことは多くあったが、就寝前にこの本を開くと、何か大きなうねりの中にありながらも深々と安定したものに包まれているような感覚に浸ることができた。

このような書物に巡り会えたことに感謝したい。
読書断片 | コメント:0 |

恩寵のような、、、

(2007年04月11日)

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今日は、仕事が待ちだったので、眼鏡を誂えに少し遠出をした。

といっても、店は電車で一駅くらいのところにあって、自転車で。

月曜に眺めた桜並木を右に見て左折、堤防下の道を南へ下がる。

途中、学校沿いをゆったりと流れる用水路に、桜の花弁が一面に散りばめたように流れている。
昨日あたりから散り初めたようで、まだ大きな塊にはなっていないのだった。

検眼を済ませ、帰りはすぐ桂川の堤防に上がった。

すると、、、そこは春の、爛漫の春を絵に描いたような世界だった。
陽光はきらきらと溢れ、堤防上の道の両側には菜の花が一面に咲き、春の広大な輝くような空間が広がっていた。

上がってすぐのところにマンションが建っていて、桜の木が満開だった。
鳥の鳴き声に、ふと木を見上げると、中ほどの枝に2羽の山鳩が仲良く並んで止まっている。
互いに顔を見合わせ、何かしら恥ずかしげに嘴を触れ合っていた。

そっと邪魔をしないように、その場を離れ、堤防上の道を走った。

川は川幅の4分の一くらいしか流れはなく、広い中州の砂地が見えている。
緑の繁茂しているところもあって、野趣に富んだ地形をなしている。

と、鶯の鳴き声が聞こえた。
何年振りに聞く声だろうか。

あまりに嬉しくなって、何だか少し泣きそうになった。

こんな日が私にも訪れることがあるのだ、と思うと、しきりに有り難い気持ちがした。

桜の薄桃色と、菜の花の黄色、そして鳥は睦み合い、鶯はのどかな鳴き音を洩らす。
光は溢れ、風が吹く。

桜の木が手の届く高さに花を差し伸べている。
自転車を止めて、手を伸ばす。

枝の先端で鞠のように固まった花の塊を、そっと手の平に包むようにした。

すると、柔らかな感触と同時に、清冽な冷気が掌に吹き付けてくるのを感じた。

桜が気を出している、、、

溢れる陽光の下で、桜が内部の闇から冷たい気を吐息のように出すのだ、と思った。
悦び | コメント:0 |

依代としての突端

今からもう13年前になるか、、、都落ちしてO県に流れていった時、頭のどこかに漁師になってやろう、という思いがあった。
実際に私に会った方から見れば、虚弱な体で何をたわ言を、と思われるだろうが、、、

家人の父親が漁師をしていて、漁業権を持っているが老齢なので、後を継ぐ形でどうか、という助言があった。
実際の現地の漁業は、粗暴な底引き漁の横行で稚魚まで採り尽し、また稚魚の揺り籠である藻場は相次ぐ埋め立てにより壊滅状態、牡蠣の養殖以外では生活できないという惨状だったので、沙汰止みになったが、、、

現地生活の後半3年は整体業をやっていて、現地の漁師がやってきた。
中に男振りの良い若者がいて、牡蠣の養殖をやっているそうだった。

都会の若者と違って屈託がなく、気性がさっぱりしていたので好もしかった。

港からほど近い島影になるところに牡蠣を吊るす筏を浮かべ、そこで作業をするそうだった。
傍には小豆島と行き来する大型フェリーの航路があって、フェリーが航行する度に筏は大きく揺れる。
実際に、揺られた拍子に海へはまったこともあるそうだった。

その筏からも見える近くの小島は、戦後開拓の手が入って暫くは栄えたのだが、今は数軒の家と、バブル期に建てられた鳥の巣箱のような、バンガローに毛が生えた程度の別荘が寂れたまま乱立しているだけ。
そこは、“浪○恋しぐれ”で有名になった某演歌作曲家の出身地でもあった。
彼の家は極貧で、地元では相当いじめにあったらしい。

彼の作曲した歌に、鳥羽○郎の『海峡の春』という歌があって、それには
♪行き交うフェリーにあおられて、船は横揺れ波しぶき
という一節がある。

そこを唄う度に、彼の充たされぬ望郷の念やいくつものことを断念してきた私自身の来し方などが、何故かしきりに思われて、泣けてくるのである。
随想 | コメント:0 |

ある挨拶より

ある神父の挨拶文がとてもいい文章だったと覚えていて、探してみたが、ある箇所の片言隻語のみ目に止まった。

“ライフワークは、救いの対極にある悪を掘り下げ、その克服の形である典礼を模索し続けること。(略)信仰の表現ともなる典礼(略)原則はきちんと守りながら、それを活かすも殺すも現場の人間のなせるわざ。もちろんそれを超えた真実があってこそ”

「救いの対極にある悪」というのは、耳新しい言葉ではないようにも思えるが、聖職者の言葉として聞く時、またその人となりと実際の言動を知って読む時、強い現実性を帯びて聞こえるような気がする。

彼は、信仰にはある種の神秘体験が欠かせない、とも言う。

彼は、ある日突然見るもの全てが光り輝き、眩しくて涙が止め処なく溢れ出、それが1週間続いたそうであった。
よく見聞きする<至高体験=全一体験>だが、私の知り合いの詩人で、ちょうどこれとそっくりな体験をされた方がおられた。

私の中学時代の2つの特別な体験とも通じるものがあるようだ。

見神譚というのは、文字通り<神>を肉眼で見ることではなく、このような世界の荘厳化の様相を帯びて体験されることが多い。
シモーヌ・ヴェイユの言う如く、神はこの世の外にあって、この世のうちでは不在と言う形でしか臨在し得ないのだから。
内的体験 | コメント:0 |
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