気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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いつみきか、、、(覚書)

(2006年12月15日)
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時に夢心地になるものか、記憶があるものの2度と行き着けない場所がある、、、

以前、山を巡って各戸にガスを配送していた頃、最初の1箇月は上司と一緒に回った。

山のほぼ頂上近くに小さな集落があった。
緩やかな斜面にロータリーのような花壇があり、それを囲むようにして民家が2,3軒建っていた、、、と思う。

薄日が差していたのか、うっすらと霧がかかっていたのか、記憶が定かではない。
ただ、周囲の風景の記憶がすっぽりと欠落していて、記憶の中で朧に霞む山の中に、忽然と桃源郷のような家並みが現れる。

朝露にしとどに濡れた花々と家並みが柔らかな陽光に煌めいて、夢見心地のようなそこの区画だけが、他の集落の記憶とは切り離されて残存しているのだ。

通常ならばひと月に一回のペースでボンベの交換をするのだが、その後再びそこを訪れた記憶がないのである。

山では、往々にして意識の変容を体験するものだが、これもその内の1つなのかどうか、未だに分からない。
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妖かし | コメント:0 |

夢日記

2008年02月09日
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昨夜夢を見た。
内容を細かなところまでよく覚えているのは、このところの夢では珍しく、印象深かったので忘れぬうちに書き付けておこう。

なんでも、引越しをするというので、新しく住むことになったところを家人と一緒に見にいっているようだった。
既に転居したのか、これからしようというのかは分からない。

四条堀川の北西角にあるマンションらしい。
といっても、現実の場所とは異なり、どこか昭和30年代の感じがする街の風景に変わっている。

平生から住むなら一軒家の平屋がいいと思っているのだが、そこはこじんまりしたマンションであった。

4階建ての3階。各階はそれぞれ二戸づつになった極めて小さなマンションであった。各戸は3部屋ほどの間取りになっているらしい。
確かエレベーターがあって、それで3階へ上がる。
と、廊下に相当する区画には路地のような地面があり、ささやかな植え込みなどがあって、コンクリートで固められた雰囲気がどこにもないのであった。

こういうマンションは若い人が主に住んでいて、喧しいのはかなわない、とか思っている。
隣人は不在のようだったが、その内帰ってきたのを見ると30代後半くらいの、どことなく西洋人っぽい顔立ちの女性であった。整った顔の知的な美人である。旦那さんは警察官のようだ。

部屋に入ると、がらんとした中は結構広い。
しかも、どことなく土の感じがあって、柔らかな雰囲気がある。

マンションから出て外を散策する。
四条堀川の西南を南へ下がって少し行くとショーウインドウがあって、その中は家具展示場らしく、ベッドが置かれている。
ベッドの向こうに若い男性が立っていて、何か音楽を聞きながら、自分でも朗々と歌い上げている。

さらに南へ行くと喫茶店を兼ねたレコード屋があって、どうやら右隣の家具展示場と一体になった店らしい。古いLPやCDなどが並べられているのが見える。

家人に、中に入ってお茶でもしてきたら、と言ったような気がする。

マンションに戻って3階の廊下にいるようだ。そこは土間のようになっていて古びた台所があった。人影の見えない廃屋のような暗い空間。

人に馴れた鼠が1匹いて流しから下を見ている。
下にポリバケツがあって、その縁に何か取っ手のような切れ端がくっついていて、それが生き物のようにくにくにと動いている

全体に、懐かしい柔らかな空気に満ちている。
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読書の悦び―もしくは、私自身のためのメモ

2008年02月02日
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読み終えるのが惜しいという書物に、時として出遭うことがある。

近年では、中沢「カイエ・ソバージュ」、ウィルバー「無境界」、プロティノス「一なるもの」、、、

昨夜、このところ読んでいる書物の中の一節に出遭い、背中に戦慄にも似た衝撃が走り、心が戦くような感銘を覚えた。

文学書とは違い、哲学的記述においてこのような感銘を受けることはそうそうあるものではない。
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「「真如」の、根源的非顕現態(=非現象態)から顕現態(現象態)への次元転換を引き起す言語的意味分節は、文字どおり『起信論』形而上学の中核をなす部分だが、この場合、「分節」は本性的に双面構造であることを忘れてはならない。双面的、すなわち言語意味分節は、同時に存在分節でもあり意識分節でもある、ということだ。

          意識分節
  意味分節<
          存在分節

『大乗起信論』とさえ言えば誰でもすぐ標語のように憶い出す、あの一句、『忽然念起(こつねんねんき)』――いま言った言語的意味分節の双面構造的事態を、この有名な一句は描いているのだ。
「忽然念起」、いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。「念」が起る、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ぬ意識の分節が起る、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。」(井筒俊彦「意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学」より)
読書断片 | コメント:0 |
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