気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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皆川ワールドへの沈潜

(2008年01月24日)
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皆川博子『倒立する塔の殺人』(理論社、2007.11)

この1週間ほどの間に少しづつ読み進んでいたが、昨夜読み終える。

先の世界大戦を挟む、戦前から敗戦直後にかけての物語。
ジュブナイル小説らしく、「異分子」や「敬称」などという言葉にもルビが振られているが、語られる内容は女学生同士の交友に纏わる不可解な失踪とある<重大な疑惑>を軸に、女学生同士の抑制の効いた優しげな交遊関係を描きながらも、時代設定にもよるのだろうか、暗く陰鬱な雰囲気が漂う。

少し読み進んだあたりで、活字書体の微妙な変化に気付いた。
当初は、ゆったりとした典雅な趣のある「本蘭明朝体」であったのに、途中から「石井細明朝体」になっている。
重大な編集上の錯誤と思いきや、これは作中に展開される複数の登場人物の手になる作中小説の部分と地の文とを区別するための方策なのであった。(ここの所は、もう少し明確に異なった書体を使い分けた方が良かったと思われる)

執拗に繰り返されるある種の刷り込みによって盲点となった、見えざる中心が存在する。

複数の作者による連作形式の小説と手記が、本来の地の文と交互に展開され、読み進むうちに虚実の境目が危うくなってくる。
のみならず、うっかりと見過ごしそうになるが、途中の地の文でさえも、冒頭と末尾の筆者とは異なる人物によって書かれているなど、構成的な不明瞭さは残る。

これは、いわば皆川式「藪の中」という趣向ではあるものの、ある痛ましい魂の告白と自己完結的な観念の劇でもあろう。

戦時下という閉塞状況が醸し出す特殊な時間の中に、複数の作者による作中作という多重構造によって幾重にも仕組まれ、暗示的な寓意に満ちた創作と推論とによってあざなわれた、観念の過剰さゆえの破滅劇という皆川作品に特徴的な傾向を露わにした作品とも言えよう。

自意識過剰な性愛未満の欲望の影に潜む毒と甘美さは、苦渋に塗れた罪意識と自罰的な陰鬱さの中に中吊りのまま封印されている。
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読書断片 | コメント:0 |

大事なことは、、、

(2008年01月05日)
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時間は人間に平等に与えられているというが、現実的には「自由になる時間」という意味では必ずしも平等でもないだろう。

もう一つ帰納的には真であり、その意味で平等だろうと思われるのが、個体としてやがて訪れるだろうはずの「死」である。

これとても実際に「死んで」みなければ、自分もやはり死ぬべき存在であったことが証明されないのだから、その時まで自明とは中々に言い難いのかも知れない。

何故かこの世界に出現した、この「わたし」という存在。
気が付いた時には、すでにここに存在していた(生まれてきた)、という事情から推測するに、いずれはまた理不尽にも(=何故か)ここからいなくなる(死ぬ)のだろう、とまでは推量がつきそうである。

このことに関して、かの足穂翁は「この自分がすっぱりこの世からいなくなるなんて、そんなうまい話があってたまるものか」と生前言っておられたが、今頃はどこかの国の誰かに転生しているのかも知れない。

、、、しかし、永遠に転生し続けるのもどうかと思われる。不老不死など、何千年も生きて、あまたの悲惨や病苦や苦悩を見聞きするのは気が滅入るではないか。
有限であるからこそ、須臾の命ゆえにより良く(個々人によって何を善しとするかは異なるにしても)生きようとも思うのに違いあるまい。死に臨んで誰も後悔するのをよしとしないであろうから、、、

あるいはまた、もしかすると私たちは、宇宙の深奥に潜み、時として影のように気配を仄めかすある巨大なものの見ている夢の一瞬の登場人物なのかも知れない。

大いなるものから無限に湧き出る微小な泡沫のような意識の束、見ているのは「彼のもの」か、もしかしてそれは「私」なのか、虚と実が相見互いに反転し続ける無限の照応。
いつか、その円環の外に出る日が来るまで、いつでも途上にあり未完成な生を生きるのだろう。
雑記・覚書 | コメント:0 |
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