気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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中沢新一『カイエ・ソバージュ』Ⅳ・Ⅴ

ここでは、現在の人間社会の秩序や価値基準の根底にある<差異>性の根拠が問われている。

判断、区別、分類、などの同一律・矛盾律を基底としたアリストテレス型論理が当惑するような世界、人間にとって旧知ではあるものの、本当には知られていない、その豊饒な沃野が示されている。

神話的論理・思考方法、夢の言語、分裂病の病像、象徴主義、シュルレアリスム、、、それらが真に何を語っているかが、ここでは明白に述べられる。

読み進むにつれ、一体何枚の鱗が目から剥がれ落ちたことだろうか、、、

これまで、フロイト、バタイユ、ユング、トランスパーソナル心理学、仏教、キリスト教、など様々な記述を見聞きし、どうかして<本当>のことが知りたい、という希求に突き動かされていた私にとって、その本源的な到達地点について、包括的・原理的に開明された書物と言って過言ではないように思われた。

何か明確には分からないが、そこに大事な<本当>のことが隠されているようなそんな領域、上に挙げたような<神話的論理・思考方法、夢の言語、分裂病の病像、象徴主義、シュルレアリスム、仏教における空・無、、>など、それらが内包する原理がこれほど包括的かつ明確に述べられた書物を他に知らない。

非対称性論理に基づいた現有の秩序・社会=グローバリズム・巨大資本主義の席巻する世界に対する、対称性思考・対称性の論理、対称性原理に貫かれた無意識の領域が、これまで貶められてきた下層の精神的領域という不当な地位から、本来の<高次元>な知性の活動、という転倒が行われる。

そこここに散りばめられた先住民の神話や儀礼、分裂病の病像に現れた「感情圧縮」「表情倒錯」などの本当の意味、などそこだけを取り出しても知的興奮を抑えられない。

「地上に<一>の原理が出現し、世界が悪によって覆われてしまった」ため、それから逃れようとして、果てしなくジャングルの中を彷徨するグアラニ族(何世紀にも亙って、まるで哲学者のように考え、語り、行動する「シャーマン上がりの預言者」を輩出)の話。
「一」とは、AはAである、という同一律が支配する世界のことである。

対称性思考においては、部分は全体に一致し、互いに立場や位置関係を交換し合う。
つまり、腕は体の一部だが、体は腕の一部でもある、という位置の転倒。
笑いながら口からは悪罵を放ち、憎悪の表情で愛を語る、という<分裂病>における感情圧縮と表情倒錯との対応。
そこでは、一体何が生起しているのか。

特に私は、現存人類の脳の巨大化に伴う、それまでの領域ごとに分断されていた知的機能が、脳全体を横断的に流動する<知性>(こころ)の発生へと移行し、「原初的抑圧」の元に<言語>領域が生成する条りや、<物自体>に決して到達し得ない<言語>の本質が原理的に成立させてしまう<神>が、永遠に到達し得ぬ空虚な中心として厳かに立ち上がる原初的光景、に興奮を禁じ得なかった。

<記号作用>が無意識を抑圧すると、そこに<記号内容>が形成され、初めて意味が発生する、というのは、所謂構造主義では自明の事柄なのだろうが、抑圧なき世界、意味を解体する営為・表現行為の、本来の<意味>を知る原理的観点として重要だろう。

先住民の男達にのみ参加を許される秘密の儀式に際して、<山>から帰ってくる男達をにこやかに迎える女達。なぜ、彼女らは自分達がその儀式に参与できないことに憤りを感じないのか。本当に「可哀想」なのは男達なのであり、<秘密智><自然智>の違いを通して、その謎が解き明かされる。

その他にも、カトリックが資本主義の発展に寄与した原理として<三位一体>説が語られ、何故<イスラム>に原理主義が発生しやすいか、また、精霊(聖霊)、マリア信仰、三位一体、天使など、教義的には不明瞭さを残すカトリック信仰の背景にも記述は及び、興味が尽きない記述に溢れている。
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カルミネ・メオ(PART1)

今回は、小説ではなく音楽作品の紹介。

表記のアルバムは、日本では2000年に発売された(?)もので、当時は相当評判になったようである。
それは最初、テレビ東京の美術番組「美の巨人たち」のエンディング・テーマ曲として流された。1997年頃だったようだ。

美術番組としても工夫があって、洒落たショートストーリーを作品に絡ませて見せる、実にセンスの良い構成になっていて、お気に入りの番組である。

何回か見るうち、番組内容から受ける心地よい感銘が覚めやらぬ最後にこの曲が流れ、何か激しく内部からこみ上げるものがあるのに気付かされた。

最初、それは番組内容からくるものと錯覚していたのだったが。

曲名を見ると、“Spente le stelle”(星に想いを)となっていた。

ずっと心にひっかかていて、1年程前にネット検索で見つけ出し、注文した。

15曲が収録されており、Spente le stelle は2曲目に入っていた。

最初の曲は1分ほどの短い序章のような曲だった。
どこか太古の海のざわめきを連想させる、<予兆>に充ち満ちた、密やかな音の群れが展開していく、、、と、知らぬ間に2曲目に連携して曲が立ち上がる、、、

なんと形容すれば言いのだろう、、、曲が進むにつれ、体の(心の)通常では考えられないほどの深みから、何か圧倒的に熱く滾るような情念が、というより<情動>が喚起され、凄まじい勢いで圧倒されていく、そんな感じだった。

横隔膜が、どうしたのか、と自分でも訝るくらいの起伏を打って波打ち、気が付くと嗚咽が号泣に変わろうとしていた、、、

こんなにも深い感興を齎す音楽を他で経験したことがなかった。

ジャンル分けは不可能な、様々な要素が絡み合い、重層的に展開していく。
オペラのアリア、カンツォーネ、ポップス、コーラス、、、、

かつて西洋の没落とかなんとか言われた時期もあったが、このアルバムを聴いて、西欧の歴史的な深さや厚さ、長大にして広大な沃野や岩盤に圧倒されそうになった。

歌い手は、エマ・シャプラン&フレンチ・オペラ・クワイアとある。

15曲の殆どはラテン語による歌詞で歌われ、どこか熱情を帯びた壮麗・荘厳な宗教曲のようにも聞える。
この作品の場合は、熱情溢れる祈りという形で、永遠なるものへの希求を見出すことができるだろう。

因みに、1曲目の題名は「de l' abime au rivage(深淵から岸辺へ)」。
他に曲名は、「ルシフェルは、あの日」「マリアに祈りを」「神の怒りに」など、まるでレクイエムのようだが、決して抹香臭いことはない。

“Tutta notte”と、祈るような囁きにも似た章句で始まる「miserere, venere...(ミゼレーレ、ヴィーナス)」も、「汚れてしまった」わたし(たち)の痛悔からの祈りに重なるようである。

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山本タカト讃

山本タカトについては、すでに色々と書かれているものがあるので、私がそれに付け加えて書くことはそれほど多くはない。

書くとすれば、私にとっての山本タカトとは何か、ということになるだろうか。

何年か前のことだった。それ以前の10年ほどは仕事に追われ、パソコン雑誌と年数冊の伝奇物やホラーなどを読むだけの日々を過ごしていた私は、久し振りにふとジュンク堂の美術コーナーを訪れた。

そこで目に飛び込んできたのが、『緋色のマニエラ』(エディション・トレヴィル、2001)だった。
それまでは、この画家のことはまったく知らなかった。
その時目にしたのは、「復刻版」の方で、もともと1998年に出版されたものが好評で再刊されたものらしい。

その時は、美少女を中心に描かれたものと思い込んでいたが、そうではなく、美少年の絵と美少年と見紛う美少女の絵なのだ。

遠くは高畠華宵から始まる美少年画の系譜、それに浮世絵・錦絵などの無残絵嗜好を混ぜ合わせた、近くは花輪莞爾や丸尾末広などにも通じている画風と言えるだろう。
しかし、その耽美的傾向や完成度の高さは比類のないものである。

静謐で、しかもその底流に禍々しい欲動の蠢きを予感させ、息詰まるような濃密な情念を内包した絵の数々。

私は、あっという間に虜になってしまい、意識下で未分化だった男色的傾向を自覚せざるを得なくなってしまった。

無論、それは生々しい欲望の発露というのではなく、観念の上での快楽行為ではあるが、、、

しかし、どういう訳か、私の嗜好に男色家(あるいは男色傾向の)の作品が多いのは何故なのか、よく分からない(ことにしておこう、今は)。

塚本邦雄、春日井健、中井英夫、三島、高橋睦郎、石井辰彦(?)、、、

他に画集としては『ナルシスの祭壇』(トレヴィル、2002)『ファルマコンの蠱惑』(トレヴィル、2004)がある。年々細密になっているようである。

1年ほど前にチェックしたところでは、『緋色のマニエラ』は品切れで、古書でも9000円とかの高値であったが、今はどうか。

テーマ:美術・映像 - ジャンル:日記

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鷲巣繁男 『呪法と変容』 (竹内書店)

最近では、どういう評価を受けているか知らないが、詩人にして敬虔な正教会信者、独学で5ヶ国語(ラテン語ギリシャ語を含め)に通暁して原書を渉猟、該博な古今東西の知識を血肉として、荘重かつ目くるめくその言説は今も、地底から天空へと湧き上がりまた馳せ下るがごとくの壮観さと衝迫力を失ってはいない。

最初にこの詩人の存在を知ったのは、歌集『蝦夷の別れ』でであった。

それまで、市井の一俳人・詩人であった著者が、長年住みなれた北海道を離れ東京へと居を移す間際に、抑え切れない情動に突き動かされるがまま、一気呵成に詠んだ短歌集である。(これについては、また後日)

私は、この歌集で、それまで殆ど馴染みのなかった、いや正確には「馴染めなかった」現代短歌に目を見開かされたのであった。

この一種現代の隠者ともいうべき詩人、思索家の出現に、かの戦後短歌界の名伯楽中井英夫氏が会いに行き、「あなたに会えて、本当に生きていてよかった、、、」と涙を流した、というのは本当の話である。

私はそのことを、鷲巣氏と交流のあった編集者から直接聞いたのだから。

で、本題の『呪法と変容』だが、これは文学評論、芸能・宗教の本質論、信仰告白、東西に跨る人間と文化の探求、などが渾然一体となった論集とでも言えばいいのだろうか。現代の頽落した言説に対する呪詛や憤怒にも充ちて、、

「エウメニデス」「放浪と幻化」「オルペウスの反復 土俗と怨念への序言」「儀礼と偶然」「迷宮とドロメーノン 終末論あるひは時空の亀裂」など、滾るような熱情と怒涛のような重層的思考、その拡がりと深さは、私を打ちのめし同時に不断に鼓舞して熄まない。

グノーシスや神秘主義に惹かれるものを感じている方や、<信仰>を突き詰めて考えようとしておられる方に、是非読んで貰いたいと思う。

私は、この書物でシュオッブの「癩者のレシ」という小品の抄訳(後半は全訳)(「放浪と幻化」所収)を読み、信仰というものが少し分かるような気がした。
それで、全訳を読みたいと思って幾つかの翻訳を当ってみたが、どれもこの書の鷲巣訳に及ばなかった。

血肉となった<言葉>に溢れた稀有な書というべきだろう。

なお、表記の本の出版元、竹内書店はこの本を出版して3ヵ月後に潰れ、その後牧神社から改訂増補版(『呪法と變容』)が出たが、ここも今はなく、現在確か全集が出ているか出ていた筈である。

検索は、「呪法と変容」か「呪法と變容」のどちらも試されることをお奨めする。

因みに、竹内版は製本がやわで、背と本体が乖離しかけているものが多い。
その点、牧神社版はハードカバーで丸背、保存性はよい。

テーマ:読書メモ - ジャンル:学問・文化・芸術

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再開

半年前から中断していた更新を再開します。

<読書断片>というカテゴリーを追加しました。
本を読むというのは生活の一部になっているものの、時間の制約と読書速度の遅さがネックで、新刊紹介などに程遠い「旧刊感想・覚書」のようなものです。

余りに古い出版物で呆れられるかも、ですが、、、

それでは、よろしくお付き合いの程を。
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