気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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ある挨拶より

ある神父の挨拶文がとてもいい文章だったと覚えていて、探してみたが、ある箇所の片言隻語のみ目に止まった。

“ライフワークは、救いの対極にある悪を掘り下げ、その克服の形である典礼を模索し続けること。(略)信仰の表現ともなる典礼(略)原則はきちんと守りながら、それを活かすも殺すも現場の人間のなせるわざ。もちろんそれを超えた真実があってこそ”

「救いの対極にある悪」というのは、耳新しい言葉ではないようにも思えるが、聖職者の言葉として聞く時、またその人となりと実際の言動を知って読む時、強い現実性を帯びて聞こえるような気がする。

彼は、信仰にはある種の神秘体験が欠かせない、とも言う。

彼は、ある日突然見るもの全てが光り輝き、眩しくて涙が止め処なく溢れ出、それが1週間続いたそうであった。
よく見聞きする<至高体験=全一体験>だが、私の知り合いの詩人で、ちょうどこれとそっくりな体験をされた方がおられた。

私の中学時代の2つの特別な体験とも通じるものがあるようだ。

見神譚というのは、文字通り<神>を肉眼で見ることではなく、このような世界の荘厳化の様相を帯びて体験されることが多い。
シモーヌ・ヴェイユの言う如く、神はこの世の外にあって、この世のうちでは不在と言う形でしか臨在し得ないのだから。
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内的体験 | コメント:0 |

白昼夢、もしくは意識の変容

(2006年04月26日)

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それは、いつも夕刻、一人居る時にやってきた。

仕事の間の束の間の小休止。
横になったり、壁に寄りかかり、なんということもなく放心している時に、それは訪れる。

目の前の見慣れた風景が、見た目はそのままで、異世界の風景に変容する感覚。

見えている風景に、慣れ親しんだ風景が連続しているはずの周辺が、全く見知らぬ地域・領域に変容している。

目の前の風景が、既知の場所という意味を喪失し、意識が本来の定常的な場の喪失に戸惑い、どこか未知の領域(異空間)で彷徨う感じ。

それをただ見ている自分。

体内の血管の中で、血流が細かな砂塵のような微細粒を巻き上げながら緩やかに逆流し始める感覚。

脳内に陶然とした快美感が溢れ、それが漣のように全身に波及していく。

今が何時で、ここがどこか、という見当識は保持したまま、溶解していく意識を感じている自分。

少し姿勢を変えれば、直ぐに平常的な意識が戻ってくるのは分かっているが、暫くはこのままで。
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あるがままに(旧稿より)

(2006年03月17日)

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あれは、確か中学生の終わり頃だった。

その日、いつものように夕方近く、自室の机に向かい、何をするともなく、窓越しに向かいの家の屋根やその向うに広がるよく晴れた青空を見ていた。

突然、何故ともなく「すべてうまくいっている。すべてはあるがままでいい」という思いがけない感慨のようなものが舞い降り、有り難たさの感情がこみ上げ、恩寵のような至福のひと時が訪れた。

すべての目に見えるものが、穏やかに満ち足りて<そこ>にあった。

一種のトランス状態だったと言えるのかも知れないが、それ以降、私には時として、いまここにあるがまま、の状態で、目に見える世界の<意味>が、全く見知らぬものに変容してしまう体験が訪れるようになった。
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エピソード(旧稿より)

(2006年07月18日)

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中学生だったある日、世界が一変して見えた。

すべてが初めて見る世界のように思えた。
雨上がりの陽光の中で見るように、全てが洗い清められたかのように輝いて見えた。目が変になったのかと思った。

世界が初々しく、あるがままできらきら光っている。

こういう感覚は共通の感覚だと思い込んでいたが、どうもそうではないらしい、とこの頃思うようになった。

思春期のある日を境に世界が一変してみえる、そういう体験は皆に共通の体験なのだろうと思い込んでいたのだったが、家人と話していてどうも反応が曖昧だったので、確認してみると、そういう体験はなかったのだという。
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神々の笑い(旧稿より)

イメージの中で蜩(ひぐらし)は、夏の終わり頃、人里離れ
た山奥で遠くに木霊するような寂しげな鳴き声を響かせる。

7年ほど前になる。その頃、中国地方で山間部の集落を巡っての仕事をしていた。
梅雨明けに急激な暑さが襲ってきて2,3日した頃、丁度昼食時にとある山の中腹で休憩をとった。
昼飯のあと、心地よい眠気に身を委ねていた。ふと気付くと、全山を覆い尽くすかとも思われる、無数の蜩の鳴き音に埋もれていた。

その数、何千匹か。耳にというよりも脳髄の奥底にまで染み入ってくる、密やかなひぐらしの鳴き音の驟雨。どこからとも知れぬ中空から次々に湧き上がり、降り落ちてきて、ふっと消え去る音の無数の重なり。

あのような数の蝉の鳴く声を聞いたことは無い。
かなかなかな、と最後は急に途切れるような鳴き声は、何か謎めいた笑い声にも聞こえた。あたかも宇宙全体が謎の笑い声に埋め尽くされたかのような、不思議な浮遊感覚。

神々の笑い、そんな言葉が頭に浮かんだ。

その場所の地名は「成仏」。これは本当の話だ。
あれは涅槃だったのかも知れない。
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