気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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ある辞世歌

新日曜美術館の再放送を見る。高島野十郎。


 花も散り世はこともなくひたすらにただ赤々と陽は照りてあり


高島野十郎の辞世の歌。

生涯、画壇との交わりを避け、ひたすら写実を目指した孤高の画家。

盗まれたあと、4年間も床下に放置されていたため、カビだらけになっていたが、自分の絵は千年もつ、と豪語した野十郎が施した下塗りのお陰で、完全修復なった「雨の法隆寺」。
針のような雨脚に埋め尽くされた絵が静かな迫力で迫ってくる。

また、彼は生前から親しくしていた友人や知己に、火の点った蝋燭を1本だけ描いた絵を送り続けた、その数40点。

番組のゲストは、彼が自分の心の温かさをお礼に代えて贈った、と言っていたが、私には、そのゆらめく蝋燭の炎が、自然と宇宙をどこまでも見つめようとした彼の、内なる凝視する眼と心の表現だったと思える。

彼は自分の心を贈ったのだ、と。

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以前、上の歌とよく似た歌を詠んだことがあった。
辞世の歌には、まだ早いと思われるが。

 ○降り注ぐ遍ねきものの満ち充ちて風渡るなり主(ぬし)なき庭に
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山本タカト讃

山本タカトについては、すでに色々と書かれているものがあるので、私がそれに付け加えて書くことはそれほど多くはない。

書くとすれば、私にとっての山本タカトとは何か、ということになるだろうか。

何年か前のことだった。それ以前の10年ほどは仕事に追われ、パソコン雑誌と年数冊の伝奇物やホラーなどを読むだけの日々を過ごしていた私は、久し振りにふとジュンク堂の美術コーナーを訪れた。

そこで目に飛び込んできたのが、『緋色のマニエラ』(エディション・トレヴィル、2001)だった。
それまでは、この画家のことはまったく知らなかった。
その時目にしたのは、「復刻版」の方で、もともと1998年に出版されたものが好評で再刊されたものらしい。

その時は、美少女を中心に描かれたものと思い込んでいたが、そうではなく、美少年の絵と美少年と見紛う美少女の絵なのだ。

遠くは高畠華宵から始まる美少年画の系譜、それに浮世絵・錦絵などの無残絵嗜好を混ぜ合わせた、近くは花輪莞爾や丸尾末広などにも通じている画風と言えるだろう。
しかし、その耽美的傾向や完成度の高さは比類のないものである。

静謐で、しかもその底流に禍々しい欲動の蠢きを予感させ、息詰まるような濃密な情念を内包した絵の数々。

私は、あっという間に虜になってしまい、意識下で未分化だった男色的傾向を自覚せざるを得なくなってしまった。

無論、それは生々しい欲望の発露というのではなく、観念の上での快楽行為ではあるが、、、

しかし、どういう訳か、私の嗜好に男色家(あるいは男色傾向の)の作品が多いのは何故なのか、よく分からない(ことにしておこう、今は)。

塚本邦雄、春日井健、中井英夫、三島、高橋睦郎、石井辰彦(?)、、、

他に画集としては『ナルシスの祭壇』(トレヴィル、2002)『ファルマコンの蠱惑』(トレヴィル、2004)がある。年々細密になっているようである。

1年ほど前にチェックしたところでは、『緋色のマニエラ』は品切れで、古書でも9000円とかの高値であったが、今はどうか。

テーマ:美術・映像 - ジャンル:日記

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大災厄の光景

好きな画家は沢山いるが、あまり知られていないものでは、ジョン・マーチンが好きだ。
壮麗精緻と称されているが、その壮大なビジョンはちょっと筆舌に尽くしがたいものがある。
大災厄、巨大建築、大崩壊する天地、など、その幻視的光景には心底魅惑される。
似た画風では、宗教画を沢山描いた、ギュスターブ・ドレにも似た感じがあるが、ドレのそれが静的なイメージであるのに比して、マーチンのものには極めて力動的で内在的なパワーを感じる。
そう言う意味では、同じ英国のブレイクなどに通じるものがある。
悪夢のような、一度見たら忘れられない、あまりに壮麗な大災厄の光景。
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