気配と囁き ―秘密の薔薇―

個人的な関心事についての日録風覚書。隠されたもの、語り得ぬもの、覆われたもの、向こう側、境界線上のもの、この世ならぬもの、過剰なもの、偏奇なもの、只事でないこと、などについて。

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こんな話 風狂の人

就眠儀式のように、就寝前のひととき、ずっと色々の幽霊譚や奇譚の類を読み散らかしていたが、その中の古本で買った怪談を集めた書籍に収載されていた、ある掌編が心に留まった。

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とある晩秋の昼下がり、名古屋の城下町にぼろ同然の墨衣を纏った僧形の男が、念仏のような文句を唄いながら踊っていた。

「まずたのむ、まずたのむ、しいのきもあり、なつこだち、おとは、あられか、ひのきがさ」

男の名は惟然。芭蕉なきあと、空しい心を抱きつつ諸国を彷徨いながら、念ずるは風羅念仏。
芭蕉の句を織り込みながら、最後に南無阿弥陀仏と締めくくる。

関町に生まれた惟然は、名古屋に養子に行ったのだが、ある日、庭前の梅の花が小鳥の羽ばたきした風に散ったのを見て、世を厭う心が起り、妻子を捨てて芭蕉の許へ走ったのだった。

と、その風羅念仏を唄い踊る惟然の袂に取り縋るものがあった。
泣きながら取り縋る若い豪家の内儀らしい女性は、惟然が卒然と出奔したあと、父親を探していた惟然の娘であった。

ともに涙を浮かべながら、とりすがる娘とそれを打ち払おうとする惟然。

「両袖に」
娘は眼を見はった。
「ただなんとなく」
娘は首をかしげた。
「時雨かな」

と同時に、袂にかけた娘の手を振り払い、惟然は驚く娘を残したまま馬のように走って逃げ去った。

時を隔てて、京の本屋の許へ娘が名古屋から訪ねてくる。
噂に、父が京にいると耳にして、遠路名古屋から訪ねてきたのだった。

本屋の主人が話を聞いて、とりあえず主人が惟然の居宅に行ってみて、在宅を確かめてから案内するという手筈になった。

訪ねていった本屋の主人に、娘にはどうしても会わない、と言いながら惟然が紙片を渡す。

そこには
「重たさの雪払えども払えども」とあった。

「それではお可哀そうではありませんか」
という本屋の主人の前から、身を躍らして庭に飛び降りるなり、惟然は裸足のまま遁走していった。

その後、いつしか娘は出家し惟然と同居していた。
米がなくなったと惟然に訴える娘。
庭の椎の葉を拾って筆を執る惟然。

門人の処へやる書面を書いている。
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人間の出生の謎、この世界とは何か(断片的な覚え書き)

三浦雅士『出生の秘密』(講談社)

この浩瀚な書物を簡単に要約してみせるのはとてもできそうもない。

書き出しは、丸谷才一の『樹影譚』という短篇小説についての記述からはじまる。
三層構造になった、巧緻で精妙で底深い恐怖と魅惑に満ちた物語。

人間の誰しもが抱える出生の秘密、誰も自分の出生の現場を知らない。誰が本当の父であり母であるかを自分自身では証明することができない。
出生の現場は常に隠されていて、自己はいつもそこへ遅れて到達する。
それが人間の抱える本源的な秘密であり謎である。

「自己がいかにも自明なものとしてあるように思えるが、しかしその出自は決定的に隠されている。しかも自己は自己自身の出自を知ることなしに生きることはできない。」(p71)

「起源を問うことの不可避性と不可能性」(p77)

人間は人間として生まれてくるのではない、小さな動物として誕生し、そこから人間になっていくのだ。

アルチュセールが「フロイトとラカン」(1964)の中で描いた、「産み落とされた小さな動物を人間の小さな子供へと変形する異常な冒険」(p92)。
そのプロセスが、さながら戦場での凄惨な戦いのドキュメントのように、あるいは叙事詩のように、熱い共感をもって描出されている。

人間が人間になっていく過程の生死を賭けた闘いが、2,3歳頃、この小さな生き物に訪れる。

それは自己が、他者を介して自己自身を発見していく道程でもある。
ラカンの「鏡像段階論」。
クラインの児童分析の症例;「ばらばらに寸断された身体像」(p537)

現実界(物自体の世界)から想像界(イメージ・感情的世界)を経て象徴界(言語的世界)への参入。

人間にとって世界は倒立している。
人間とは意識であり言葉であり、つまり虚構であり幻想だ。

その起源に向かって常に遡及し、答えのない問いを反復すること。
そこに止み難い物語への希求を見て取ることができる。

小説表現における言語の解体、意識の崩壊、原初的領野への回帰。

ヘーゲル『精神現象学』における「ラモーの甥」の問題。
侮辱と屈辱の弁証法、すなわち僻みの弁証法。
自己意識が、<僻み>の構造によって形成されたこと。

漱石における主要テーマ<僻み>。

「自己意識とは承認されたものとしてしか存在しない」
「自己意識にもう一つの自己意識が対峙するとき、自己意識は自分の外に出ている。というとき、そこには二重の意味がある。一つは、自己意識が自分を失って、他者こそ本当の自分だと考える、という意味であり、いま一つは、他者を本当の自分と見るのではなく、他者のうちに自分自身を見るというかたちで、他者を克服している、という意味である」(ヘーゲル『精神現象学』)(p491)

「僻みは強烈な自己意識からしか生まれない。あるいは僻みこそが強烈な自己意識を育てるのだ。そしてその自己意識はただ他者との関係において、すなわち他者に承認されたもの、他者に承認されるべきものとしてしか存在しないのである。」(p491)

「いうまでもなく、誰もが私なのだ。驚くべきは私が私であるという事実ではない、誰しもが私だという事実であり、私というもののこの一般性なのだ。感覚から出発することの不可能を語りながら、同時に、ヘーゲルはそう示唆している。誰もが私であって、私は誰でもありうるというこの事態がすでに、私の直接的な経験、感覚的な経験を思考の出発点とする立場を粉砕しているのだ。」(p529)

ルソーからヘーゲルを経てラカンへ。

言語と意識が生い立つ原初の海と森へ、何度でも立ち返る動き。
小説と人間の始まりの闇へ。
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私的読書メモ

(2011年02月17日)

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つい先程、1冊の書物を読み終えた。
600頁を超える大著だが、昨年末から読み始め、ふた月かかって読み終えたことになる。

三浦雅士『出生の秘密』というタイトルの「文芸評論」なのだが、ことは文学作品論の範疇を超えた、人間本質論に関わる哲学的な論考だともいえる。

少し時間をおいて、思うところを覚え書き風に書き留めておこうと思っているのだが、、、

小説を読んで落涙したことは割合経験したことがあるが、文芸評論や哲学的論考を読んで目頭が熱くなったことは、20代の時、吉本隆明の『マチウ書試論』を読んで以来のような気がする。

出生の秘密、自己意識の秘密、他者と自己、ラカンの鏡像段階論、現実と虚構の倒立、、、
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私的読書メモ

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫版)より

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哲学は学説ではなく、活動である。

思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりせねばならない。

およそかんがえられうることはすべて明晰にかんがえられうる。言い表しうることはすべて明晰に言い表しうる。

論理学は学説ではなく、世界の鏡像である。
論理は超越論的である。
(訳者注:
この世界に対して超越的でありつつも、なお、この世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と言われるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために(そしてまた世界が語られたようであるために)不可欠なものであり「超越論的なのである」)

世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。

死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。

時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。

世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

問いがたてられうるのであれば、答えもまた与えられる。

だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
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(補足)
上に抜き出した断片の意味は、前後の文脈を通じての理解においてのみ正確に把握されることを注記する。
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「自己と他者」から“小さな至高者”<あなた>へ

高校時代、乏しい小遣いで本を買うとなると勢い古書ということで、よく古本屋巡りをしていた。
小説以外にも哲学と心理学に関心が深かった。

ある日、とある古本屋で心理学の入門書を手に取った。
確か社会思想社文庫ではなかったかと思う。

古典的な見地からの記述で、色々人間の持つ心理状態の解説が書いてあった。
中に「崇高さ」という項目があって、写真が掲載されていた。
崇高さを感じさせる風景、といった意味合いからだったと思う。
そこにあったのは、巨大な岩石の塊だった。
どうやら峨々たる高山の一部を写したもので、厳しい風雪に耐えてなおも威厳を帯びて聳え立っている、そんな印象だった。
写真の端に古風ないでたちの登山者が立っていた。

それとは名指しできないが、何か打たれるものがあった。
それから間もなくしてフランクルの『夜と霧』を買って読んだ。

中に、不治の病に冒され、収容所内の病院のベッドに臥せっているユダヤ人少女の話が書いてあった。
殺風景な病室から見える唯一の外界との通路、それは窓だった。
そこから1本の木だけが見えた。
少女は毎日その木に語りかける。
すると木が答える。
「私はここにいる。ここにいるよ」と、、、
少女があえかに命を繋ぐ一筋の希望の光がそこに見える。

昨年末から先日まで3冊の書物を立て続けに読んでいた。
○ピーター・L・バーガー『現代人はキリスト教を信じられるか』(教文館)
○C・G・ユング『元型論』(紀伊國屋書店)
○村瀬 学『「あなた」の哲学』(講談社現代新書)

村瀬によれば、近年欧米の思想界では「崇高さ」に関する議論が高まってきているそうである。
既成の宗教からの離反とより広くて深い宗教性への接近という傾斜が見てとれる。

村瀬の論述は、これまで哲学や思想のテーマとして「自己」や「他者(性)」については数多くの議論がなされてきたのに、何故か二人称の「あなた」についての議論がなされていない、というところから始まっている。
欧米語の二人称が単一であるのに比して、日本語のそれが異常とも思えるほどの数があるのは何故か。
お前、君、貴様、あんた、おのれ、われ、汝、、、
それらに現れた、日本語のこうむってきた歴史的背景と意識内での転換の巧妙さ、、、
具体的な論述は本書の記述に譲る。

それらの中で村瀬は「あなた」という語の持つ、特別な語感、特別な使われ方に注目している。
目の前に「出会い」として現前している「あなた」ではなく、内的な呼びかけとしての「あなた」には大きく深い意味性が隠されている。

カントは、「われわれは、端的に大きなものを崇高と呼ぶ」と言う(本書より)。
野辺に咲く小さな野草の花、それにも「あなた」と呼びかける心性は、「小さな至高者」への尊崇の念が内在している。
存在としては小さいが、そこに現れているものの本来の大きさは計り知れないものだ。
“あるがままで尊い”、それは大きな<自然>への尊崇でもあり、またもっと深く高次のものへの祈りなのかもしれない。

村瀬の語り口は、あくまで穏やかで控えめなものである。
しかし、その思考の射程はどこまでも深く広い。

難解な事柄を平明に、あくまでも日常語の語感を大切にしながら解き明かすその語り口、手法は村瀬特有の繊細な感覚に裏打ちされている。

29年前に『初期心的現象の世界』(大和書房)で登場した、吉本理論の継承者とも言うべき村瀬の、確かな足取りを確認することができる好著である。
今年前半期または今年一番の収穫かも知れない。

中で引用され、新たな切り口で開示された書物や作品。
○森崎和江『いのち、響きあう』
○中井久夫『樹をみつめて』
○フランクル『夜と霧』
○ニーチェ『ツァラトゥストラ』
○夏目漱石『坊ちゃん』
(この小説が、従来言われてきた“青春痛快活劇小説”などではなく、日本語特有の格付け語法である「人称」を逆手に取った、<絶対評価>の視点を提示したものだという鋭い指摘)
○米倉斉加年の挿絵
(小さなこどもを背負った少年、、、この絵を平静な気持ちで見ることができない。胸を掻き毟られ嗚咽が漏れそうになる。身の置き所なく、絶叫しながら走り回りたくなる)
○山上憶良『貧窮問答歌』
(汝が世は渡る、というくだりに目を留める村瀬の感覚の鋭さ)
○『池袋・母子 餓死日記』
○耕 治人『そうかもしれない』
○マルティン・ブーバー『孤独と愛―我と汝の問題』
○エマニュエル・レヴィナス『マルティン・ブーバーの思想と現代ユダヤ教』
○高村光太郎『道程』
○川口武久『しんぼう―死を見つめて生きる』
ほか、、、

キーワード:
小さな至高者
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